罪を知らざる者は
真に神の愛を知ることはできない
(西田幾多郎)

西田幾多郎といえば
名著「善の研究」の著者。
西田氏は西洋哲学を
古代ギリシャから現代まで
彼なりのやり方で咀嚼し
そのうえでそれに拮抗しうるだけの
「日本の哲学」を生み出そうとした。

しかし、実生活では
彼の家庭は決して幸福なものではなかった。
子ども8人のうち、5人を亡くし、
病気の妻を5年間看病したあげくに失うという
人生の深い悲哀にくれた。

「善の研究」を読むとわかるのだが
ぎりぎりの思推をさらに詰めていきながら、
まるで徹底的に打ち鍛えられた
鋭利な刀のような輝きをもった
言説が綴られている。

「純粋経験」という独自の概念を打ち出しながらも
最終的に宗教観にたどり着く。

西田氏にとっての罪とはなんだろうか。
おそらく彼は
子どもや妻を失った深い悲哀と同時に
家族を幸福にできなかったことへの
負い目、罪悪感を有していたのだろう。

しかし、その負い目も
決して解決できるものではなく、
それゆえ、悶々としながら
永遠に負わなければならない罪の重さを
自身、日々に感じざるを得なかっただろう。

贖罪できるものではないがゆえ、
救いを、神に希求せざるを得なかった、
それが西田氏の心境ではなかっただろうか。

西田氏の哲学は「苦悩の哲学」とも言われる。
ぎりぎりまで思推を詰めていきながらも
救われることのない罪の意識。
そのことが、
西田氏が神を求めざるを
得なかった理由のように思える。

「善の研究」は日本哲学の金字塔である。
と同時に、思考し続けることの崇高さをも教えてくれる。

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