量子物理学の初歩
「観察されるもので、観察者に影響されないものはない」

量子物理学においては量子の働きは観察者によって変化するらしい。
有名な二重スリットの実験では
観察者がいるのといないとで、
量子は波と粒子の性質を使い分けていることが明らかになっている。
さらにいえば、観察者によって量子は過去の性質も変えているらしいことがわかっている。
未来が過去を変えることを「逆因果」の法則といわれている。

こうしたことを考えると、
究極的には「客観的な事象」はなく
すべての事象は「主観的」であるともいえる。

主観とは
その人の見方であり、
見方が認識をつくり、
認識が経験をつくる
といってもいいだろう。

そこで、このことを私たちの人生観にあてはめて考えてみる。

阿蘇在住で、両手がなく、義手で絵を描く大野勝彦さんという画家がいらっしゃる。
阿蘇にある「風の丘阿蘇大野勝彦美術館」には一度見学したが、
すばらしい作品が展示されていた。

大野さんは平成元年 農作業中、機械により両手を切断した。
しかしその後、義手で絵筆をとり、
詩作にふけり、その作品が多くの人の共感を呼んでいる。

さて、ここまでいうと、
大野さんが悲劇的な事故を乗り越えた
芸術家、というイメージで称賛する人が多いだろう。

しかし、大野さんは
そのようなイメージで見られることを嫌ってもいる。
なぜなら彼は
両手をなくした今の人生が有意義で満たされているということを
あらゆる機会を通して発言しているからだ。

もちろん、そのような認識に至る数年間
大野さんが苦悩していることは
美術館の作品からも明らかである。

だが、現在の大野さんは
両手をなくしたことについて
逆によかったとさえも発言している。
それはあくまで大野さんの主観であるのだが。

しかし、すべての事象が主観によるものだとしたら、
それは外界の条件に寄ることなく
人は常に自由な存在でありつづけ、
新しい可能性を自ら創造することができることをも示している。

さて、前述の大野さんの事例を考えてみる。
大野さんの事故、
両腕を農機器で失った、という事故は
不幸以外の何物でもない。

ご本人も悲嘆にくれる日々を
数年間、送ってはいる。

しかし、その後の大野さんは
両腕がないこと自体が不幸とは考えず、
それどころか充実し満ち足りているともいっているのだ。

もちろん、それは大野さんの「主観」であり、
それを「客観的に」評価することはできない。

しかし、だからこそ
大野さんは「客観的な」評価に寄らず、
自分自身の人生を豊かに生きることができるのである。

すべてが「客観的に」評価され、
それに基づくものであれば、
「客観的に」不幸で悲劇的な事象がおきれば
人は常に「不幸」であることになる。

しかし、すべては「主観的」であるとすれば
外界の事象がどうであれ、
それを「主観的に」受け止め、解釈し、
そこに「意味」や「意義」を見い出せれば、
その人は外界の事象に縛られることなく
自由に生きることもできるのである。

完全に「客観的な」事象はありえない。
少なくとも現代量子物理学では。

すべての事象が観察者に影響されるということは
どのような主観をもちえるか、によって
すべての事象も変わりえることであり
主観の持ち方そのものが重要である、ということでもある。

つまり、主観はその人の見方であり、
見方が認識をつくり、
認識が経験をつくっている、
といってもいい。

であれば、
私たちの見方を変えることで
私たちは外界に限定されることなく、
経験、その意味や意義を変えていくことができる、
ということもいえるのだ。

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