自分のスマホの中に2年前に亡くなった母の携帯電話のデータが残されていた。
母の死を看取ったのだが、その前から、だんだんと衰弱していく母の姿を見ていた。
死の1~2時間ほど前から、母の呼吸が弱弱しくなり、母は懸命に息をしていた。
ただ、なぜか、私の目を見て、「ヨ・・・ヨ・・・」と何かを言おうとしていた。
そのとき、母が何を言おうとしていたのかはわからない。弱弱しい発語が何を意味しているのか、その時はわからなかった。
しかし、今になって思うと母は「ヨイショ、ヨイショ」と言っていたのではないかと思う。
呼吸することさえ、精一杯の体力で、母はそれでも懸命に生きようとしていたのだ。
死の直前まで。
母は自分のそうした姿を通して、私に「懸命に生きよ」と伝えようとしていたのだ。
アウシュビッツ強制収容所から生還したフランクルは「人生を意味あるものに変えるのに、遅すぎることはけっしてない。たとえもし、あなたが、明日、死刑になる殺人犯だとしても」と言った。
人は死の直前まで自らの生の意味を、その価値をつくり出すことができる。
母は死の直前にまで、私に生きることの大切さを、精一杯生きることの大切さを伝えたのだ。