人生の後半、
ユング心理学の大家、河合速雄先生は「人生の後半、人は死に向かう生を生きる」と語っていました。
未来は狭まり、これまでの生の足跡が累積してくる。
おそらく、だれもが50代後半にもなると「これからの自分」と同様に「これまでの自分」を振り返ることも多いと思う。
嫌なこと、楽しかったこと、幸福な時間、不幸な出来事。
それらを少し俯瞰して見つめてみる。
たぶん、そう考えてみることもあるだろう。
たぶん、大事なことは「楽しかったか」「悲しかったか」、「不幸だったか」「幸せだったか」という価値基準を超えて、「それが自分の人生にどういう意味があったのか」という観点で考えることができるかどうかだと思う。
自分の人生の中で、それぞれの出来事が「どういう意味があったのか」。
不幸な出来事に遭遇したとしても、それが何かしら自分の人生を変えていったとしたら。
もちろん悪い方向に変えていったとしたら困ったことだが、「不幸な出来事」に出会って、価値観が変わることもあり、生き方が良い方向に変わることもある。
それは幸か不幸かという基準ではなく、「どういう意味があったのか」という観点でみないと、わからない。
神がいるとして、神がなにかしらそれぞれの体験を通して「何かを伝えたい」としたら。
それらは神の恩寵なのかもしれないではないだろうか。
たとえ、それがひどくつらいものであったとしても。
遠藤周作がテーマとしてきた「神の沈黙」。
その沈黙にある神の愛を信じてみるのもいいかもしれない。