「不老不死」の薬草を探しに、佐賀市に上陸したといわれる徐福伝説。秦始皇帝の時代ですから約紀元前3世紀のころ。
佐賀市の金立神社はその徐福を祀る神社でもあります。
日本国内には徐福を祭神として祀る神社は、京都、和歌山、三重、佐賀(2か所)と計5か所にあり、特に徐福は和歌山に居住したともいわれています。
さて、その秦始皇帝についてですが、かつて「ふしぎ発見」で放映された秦始皇帝の皇子と皇妃の顔が遺体の人骨から復元されたという話。
秦始皇帝の遺体は発見されておらず、その息子と妻とみられる遺体が発見され、顔が復元されたということです。
これはどうみても漢民族の顔ではなく、中東系の顔。
当時、世界最大の国家といえば「アケメネス朝ペルシア」。
秦始皇帝の兵馬俑をみても、ひとりひとりの顔が異なり、この造形様式は当時のギリシャ彫刻の写実主義の影響が色濃くみられます。
すると秦始皇帝のもともとの出自は中東、アラブ系の系譜ではないかと想像されます。
さて、秦始皇帝の命を受け、日本に渡来したといわれている徐福。徐福が命ぜられたのは「不老不死」の薬を探してくること。
もともとは徐福が秦始皇帝に「東方の三神山に長生不老の霊薬がある」と具申したのが発端。
しかし、2回目の渡来の際に、秦始皇帝が死去し、結局、徐福は日本にとどまったといわれています。
すると、徐福の本来の目的は何だったのでしょうか???
3千人もの船団を引き連れての2回目の渡来で秦に帰国していないのです。
つまり当時の最先端の技術と軍事知識を持つ3千人が日本に移り住んだことになります。これは、例えば吉野ケ里遺跡の居住人口が推計で約千人という規模と比較すると、一大国家が成立したとも考えられます。
移住した場所は紀州、現在の熊野あたりともいわれています。
徐福は秦始皇帝に「東方に不老不死の薬草がある」と具申し、渡航の支援を受けながら、実は別の目的があったのではないか、と考えてしまいます。
秦始皇帝の系譜がもともと中東の出自で、それがユダヤ系だったとしたら。そして徐福もまた、そうだったとしたら。そしてユダヤ教の知識と文化をもった人物だったとしたら。
そもそも徐福の目的が、3千人を引き連れて、日本に移住することが本来の目的であったとして、徐福は日本に何を探し、何を求めていたのでしょうか?
少し違う目的がみえてきそうです。