受刑者との文通③

受刑者のSくんから2通目の手紙が届いた。
まだ30代前半、満期はまだ先だが、
立ち直りは可能だろう。
そもそもお互い面識もないのに
マザーハウスを通して文通しているのだから
本人はおそらく家族との手紙のやり取りもないのかもしれない。

私のWEB解析士の仕事に興味深々である。
出所後はWEB関連の仕事に従事したいらしい。
どんな勉強をしたらいいのか、
尋ねてきた。

刑務所内でWEB関連の勉強は
机上の書籍でしかできないが
情報処理技術者の資格試験は受験できる。
また、そのための職業訓練もある。

佐賀だと佐賀少年刑務所に天山職業訓練校が併設されている。

ほかにも希望すれば
日商簿記の1級、2級の資格試験も受験できる。

いろんな手立てを講じて
社会復帰のための準備をしておくことが肝要だろう。

将来に希望をもつことは大切だ。
福岡教育大学を出ながら
3回、刑務所に入ったM君がいっていたが
「もう、3回も刑務所に入ると
生きていきたくもないが
死ぬこともできないので
生きているという感じ」になるらしい。

また、中学高校の同級生で
浄土真宗の住職をしているS君もいっていたのだが
彼は教誨師として
佐賀少年刑務所に受刑者に説法をしにいっており、
「満期出所の人は
希望をもっていないんですよね。
刑務所にいた方がよっぽどいいという感じですね」
と話していた。

シンプルに言えば
将来に希望をもって
日々努力する、ことが大切
ということだ。

おそらく希望を持ち続ける勁さというのがあるのだろう。

多くの人が「強さ」を
競争社会で生き抜いていく「強さ」をイメージするだろうが
社会から隔絶され
孤独のうちにいる人においての「強さ」とは
他者との比較の上に成り立つ「強さ」ではなく
希望を持ち続ける「勁さ」である。

満期出所まであと4年ほど。
くじけないで希望を持ち続けてほしい。
その間、支えてあげたい。

佐賀市若宮町の寿司割烹「いち善」の花籠弁当

今日は、クライアントの方と 佐賀市若宮町にある寿司割烹「いち善」で ランチをいただきました。 注文したのは「花籠弁当」 1500円ですのでプチ贅沢なランチですが 「上質な普通生活」を標榜する私としては ここいらが上限かな、と。 薄味の上品な味付けで 店内も清潔、上品なつくりでした。 ご年配の女性が多く、まあ、そういうプチ贅沢なランチを楽しみたい人にはぴったりなお店です。
花籠弁当(1500円)
花籠弁当のデザート

人格攻撃をネット上でする人たちに関する一考察

きれいごとをいうわけではないが、
私自身、言葉はとても大切で
何しろ6か月間の接見禁止を受けた経験があるゆえに
その間、家族とも誰とも会話をすることがなく、
それゆえ、
自分にとっての言葉は
愛に満ちた言葉、
希望に満ちた言葉、
知恵に満ちた言葉、
そしてほんの少しのユーモア、
それだけが大切で
それ以外は不要である。

ネット上で人格攻撃をする人たちがいる。
もちろん、相手側にも非があるだろうが
しかし、こうした人たちの病理性は
相手に非があることを免罪符にして
自身の病んだ部分の不満解消の手段のごとく
延々と相手の人格攻撃を続けることだ。

「自分は正しい。悪いのはあいつだ」
という単純な構図でもって
攻撃対象が悪く、
自分は正しいと主張し、
共感を得ようとする。

しかしながら、こうした人たちの多くは
「自分は正しいのに認められていない」という
ゆがんだ自己承認欲があり、
事実、「自分は正しいことを言っているのに閉職にいる」
といった人物もおり、
つまり、心は病んでいるのである。

こうしたゆがんだ自己承認欲を持つ人たちは
だれか攻撃対象となる人物を攻撃することで
「あいつは悪く、自分は正しい」という図式の中でしか
自身のアイデンティティを持ちえないという
病的な心理状況にあるのだ。

一方、罪を犯して
そこから健全な再起を果たした人の多くは
自分自身のことを深くみつめ
心の奥にある病んだ部分を
修復することで新しく自分を再生していく
という心のプロセスを経ている。

自分の心の奥深くにある病んだ部分を
真摯に見つめ、そこを修復するという
心のプロセスには痛みを伴うこともある。
例えば、幼少期に親からDVを受けていた場合。
思い出したくもない過去を思い出し、
さらにそうしたつらい過去を受け入れるという
心のプロセスも必要になるからだ。

自分の病理性を真摯に見つめ
修復するからこそ
再起ができるのである。
それが起点である。

しかし、
人格攻撃を執拗に続ける人は
「相手が悪く、自分は正しい」という構図の上でしか
自己承認欲を満たせないがため、
自身の心の病んだ部分を真摯に見つめようとしない。

よって、
こうした人たちは
自分の病んだ心を修復する機会を
自ら捨て
あくまでも
「相手が悪く、自分は正しい」という
構図の上で、
相手の人格攻撃をするとことでしか
自己承認欲をみたせないのだ。

つまり
彼らの心はいつでも病んだままだ。

「汝、復讐することなかれ」
聖書の言葉だ。

自身が人格攻撃されたからいうわけではない。
何度も言うが
自分の病んだ心を修復しない限り
罪のスパイラルの中で
延々と罪を犯し続けるだけだ。
それは法的な罪ではなくとも・・・

ただ、それでは本人が救われないだけである。