先日、小城市に住む実業家Aさんと話した時のこと。
Aさんは決してクリスチャンではないが、
有神論者ではある。

「田中さん、聖書って面白いですよね。」

「まあ、私は文庫版を持ち歩いて時折読んでますが」

「キリストが十字架にあるとき、
左右にそれぞれ1人ずつ、
磔にされた罪人がいたでしょう。」

「そうですね」

「そのうち一人はキリストに罵声を浴びせ、
もう一人はキリストとともにいることを望みましたよね」

「・・・・」

「不思議ですよね。
キリストとともにあって、一人はキリストを侮辱し
もう一人はキリストと共にあることを望んだわけですから」

Aさんが言わんとすることはおそらくこうだ。
ある事象があり、あるいはある人物とともにあって
その際に人が取り得る態度は自由ではあるものの
対極的な2つの態度が想定される。

一つは否定的な態度。
もう一つは受け入れるという態度。

しかし、おそらく
キリストを受け入れ、
キリストと共にあることを望んだ罪人は
キリストが
「あなたはわたしとともに今日、一緒に楽園にいる」
と語ったように、罪から救われ、
神の国に引き上げられただろう。

アウシュビッツ強制収容所から生還し、
後に「夜と霧」を著述した精神科医
ビクトル・E・フランクルは
どのような状況下においても
人は価値ある生を生きることができる、
と主張した。

そのうちの一つに
「態度価値」を挙げている。

どれほど絶望的状況下にあっても
死の間際にあっても、
その状況にどのような態度をとるか、
そこにも生きることの価値はあるというのだ。
それをフランクルは「態度価値」と呼んだ。

聖書は世界的ベストセラーだ。
クリスチャンでなくとも、
その内容はなにかしら
心の琴線にふれる箇所がある。

かつて、太宰治も芥川龍之介も
聖書には深く傾倒していった。

聖書は多様な読み方がある。
それぞれの読み方は自由であり、
それでも読む人の心に響くものがある。
だからこそ、
聖書はクリスチャンであるなしを問わず、
多くの人に読まれるのであろう。

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