8月15日、聖母マリア被昇天の日に
洗礼を受けて今日で10日になります。

内面的な変化はいろいろありますが、
一番大きいのは
やはり、
主イエス、聖母マリアから
「護られてる」感が
強くなったことでしょう。

とはいえ、
現実には心痛することが多く、
全てにおいて、
決して充足しているとは
いえません。

しかし、それでも
メンタル面では
「満ち足りている」感が強く、
悩みはあっても
「汝、思い煩うことなかれ」(聖書より)
との聖書の言葉通り、
「思い煩う」といったことは
ほとんどなくなりました。

そう考えると、
外的な要因というのは
幸福を構成する要件ではありますが、
それらのすべての外的要件が
そろわなくても
幸福であることは
十分可能であるといえるでしょう。

これは自論ですが、
「思い煩う」ということについて
外的要因はあくまでトリガーに過ぎず、
それによって誘発された
自身の内的な思考と感情の起伏によって
自身を苦しめてしまう、というのが
苦悩の源泉であると考えています。

一見、外的な要因に
自身の苦悩の理由を
すべて帰趨してしまいそうですが、
実はそうではなく、
おそらく、
外的要因に誘発された
自身の思考や感情が
自身を苦しめている、
というのが真相だと考えています。

このように考えるのも
実は私が1日誰とも話さない、
という状況を
6か月間過ごした経験に起因しており、
この徹底した孤独な状況のなか、
自己の内部に深く沈降していくという
内的プロセスを経ることで、
結果、自身を苦しめるのは
自身の思考や感情の起伏であって、
外的要因はトリガーに過ぎない、
と考えるようになりました。

このような考えを持っている自分にとって、
洗礼後の「満ち足りている」感覚は
様々なプロセスを経ての
ひとつの到達点でもあり、
かつ出発点でもあり、
また、原罪を有する私にとって、
クリスチャンという選択は
必然でもあって、
洗礼を受けたことにより、
このような心境を得られたことへの
感謝の念も高まりました。

それゆえ、
最近は素直に十字架を前にして
感謝し、祈ることもできるようになりました。

人生も後半に入ると
程度の差こそあれ、
身近な人の死を通して、
自らの死を意識します。

しかし、それゆえにこそ、
より鮮明にこれからの生を
意識するようにもなります。
そのなかで、クリスチャンという選択は
これから生きていく上で
大きな支柱となっています。

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