新型コロナとロボット

新型コロナによるパンデミックでロボット需要が急増しているそうだ。
飲食店でも配膳ロボットを導入している店もあるようだ。

介護や医療現場でも導入を検討しているところもあると聞く。

もともと、ロボットは効率性、生産性を目的に主に製造業で開発、導入されてきた。よって主にブルーカラーの労働分野で開発されてきた経緯がある。
それが対面型の事業分野にもロボットが導入されつつある。
このまま、対面型サービスにも導入されていくと、
タクシーやバスの運転手、
ホテルの接客、飲食店、介護医療といった分野にもロボットを見かけることになるかもしれない。

確かにロボットだと、
有給休暇もいらないし、
各種社会保険の経費もかからない。
深夜残業代もいらない。

ただ、人がその労働価値を発揮する分野を確保し得るとしたら、
どのような分野になるだろう・・・

新型コロナによってソーシャルディスタンスが新たな社会常識になりつつあることが、ロボットの需要を拡大してきた。
この状況をどう考えたらいいのだろう???
こんなんでいいのかな???




休日はテラスで過ごす

最近、休日は自宅のテラスで過ごすようになりました。
風の音
鳥の鳴き声
そんなものを聞きながら、
勉強したり、本を読んだり・・・・

テレビから離れて、
自然を体感しながらのひととき。

こういう過ごし方もいい。

自然の中にいる感覚が心地いい。
少々、大げさに言えば、
「地球を感じる」という感じ。

最近は地球もひとつの生命体と考えるようになった。
意識をもつ生命体。
ただ、言葉を発しないだけ。

そう考えると、
高放射性廃棄物を地中深く埋め込むなど、
とても受け入れられない。
「トイレのないマンション」とも揶揄される
原発の運用は止めた方がいのではないか。

同時に、
地球上のすべての生命体が一体であるという考えにも至る。

聖書の中に神とは
「われは全にして一、一にして全。始祖にして究極。終わりにして始まりなり」と記してある。
この神を「生命」と変えると、
自分にとっての生命観にぴったり当てはまる。

そういえば、日本では古来より
自然の全てに神が宿るという信仰を有していた。
八百万の神。
「八百万の神」を生命ととらえると、自分にとってはぴったりくる。

だから無駄な生など何一つないのだ。
それは人間にとっても。
人は生きているだけで価値があり、
それだけで意味あるいのちだと思う。

最近、素直にそう思えるようになった。








 

生命について考えてみる~全にして一、一にして全~

生命について考えてみる~全にして一、一にして全~

先日、「佐賀いのちを大切にする会」の会議に参加させていただきました。
11月に開催する講演会についての打ち合わせ。
最近、生命について考えることがしばしばあり、
宗教的な思索にふけってしまいます(笑)。

「全にして一、一にして全」という考えがあります。
聖書では神のことをこのように記しています。

「我は一にして全、全にして一。始祖にして究極、終わりにして始まりなり。」
この一文を生命にあてはめてみるとひとつのイメージが沸き上がります。

もしかすると、
個々の生命体は水の一滴のようなものであり、
生を終えると、大河の中の水、
すなわち大きな生命体の中にもどる、といったものなのかもということ。
すべての生命は個別でありながらも
実は、大きな生命の一滴であり、
いずれ、その大きな生命体にもどっていくというイメージ。

すべての生命は、
ひとつの大きな生命体の一滴であるとすれば、
他のすべての生命を大切にする、という考えに至ります。

個々の生命体が個別であっても
すべてが「一にして全」であれば、
大きな生命体からすれば、
他の個を傷つけることは
自分自身を傷つけることであり、
よって、すべての生命体を尊重する、という結論にいきつきます。

だから、殺生はするな、ということでしょう。

いまのところ、
自分の生命観は以上のようなものです。






 

明日への手紙

明日への手紙

今日で、もう4年になる。
4年前のこの日、
3年ぶりに見た外の世界は
これまでとは違って
とても新鮮だった。

散歩の途中の道端に咲いた小さな花、
近所の庭先に咲いたバラ、
一瞬一瞬、ちがう表情をみせる空の雲
まるで、すべてを包み込むようなオレンジ色の夕日

どれもが愛おしく、美しく、新鮮なものに思えた。
だから、僕はその一瞬一瞬を焼き付けたいと願った。
写真の中に、映像の中に。

神は世界の細部に至るまで
美を宿らせたのだ。

だから僕は確信をもっていえる。
たとえどんなことがあろうとも
この世界は素晴らしく、また、美しいと。
決して絶望することはない。
希望を持ち続けることもまた、
人のつよさなのだから。

 


接見禁止の間、
僕は1日誰とも話すことのない
6か月間の日々を送り、
家族への手紙さえも禁じられた。

言葉を奪われた日々を
おくったことで気づいたのは
人は「愛している人に、愛している」と
伝えるだけで幸せなのだと。

気障に思われるかもしれないが、
では仮に
「あなたがただ一人に
たった一言伝えられるとしたら」と問われたら、
だれに何を伝えるだろう?
おそらく多くの人が
「愛している人に愛している」と伝えたい
と願うはずだ。

それは気障でもなんでもなく、
自然な感情だと思う。

そして、僕は恋歌を書き始めた。

「古今和歌集」以降、
歌の王道は恋歌だ。
五・七・五・七・七、という31文字の中に
伝えたい相手への想いを凝縮させていく。
だから、艶やかなまでに言葉がきらめいてくる。

三畳一間の閉ざされた空間の中で
僕は伝えたかった。
子どもたちへ、
妻へ、
本当は親しくなれたはずなのに
そうはならなかった人たちへ
そして、かつて愛した人へ
「あなたを愛している」と。

おそらく人が伝えたい言葉は
つまるところ、それだけだと思う。
他に何を伝えたいというのだろう。

だから、願ってやまない。
いつか僕の言葉が
君のこころに届くことを。

フランクルの命題を考える「人生を意味あるものに変えるのに、遅すぎることはけっしてない。たとえもし、あなたが、明日、死刑になる殺人犯だとしても」

自分のスマホの中に2年前に亡くなった母の携帯電話のデータが残されていた。
母の死を看取ったのだが、その前から、だんだんと衰弱していく母の姿を見ていた。
死の1~2時間ほど前から、母の呼吸が弱弱しくなり、母は懸命に息をしていた。
ただ、なぜか、私の目を見て、「ヨ・・・ヨ・・・」と何かを言おうとしていた。

そのとき、母が何を言おうとしていたのかはわからない。弱弱しい発語が何を意味しているのか、その時はわからなかった。
しかし、今になって思うと母は「ヨイショ、ヨイショ」と言っていたのではないかと思う。
呼吸することさえ、精一杯の体力で、母はそれでも懸命に生きようとしていたのだ。
死の直前まで。

母は自分のそうした姿を通して、私に「懸命に生きよ」と伝えようとしていたのだ。

アウシュビッツ強制収容所から生還したフランクルは「人生を意味あるものに変えるのに、遅すぎることはけっしてない。たとえもし、あなたが、明日、死刑になる殺人犯だとしても」と言った。

人は死の直前まで自らの生の意味を、その価値をつくり出すことができる。

母は死の直前にまで、私に生きることの大切さを、精一杯生きることの大切さを伝えたのだ。