50代の体づくりを考える

敬愛するT先輩が腰痛で通院しているそうだ。
50を過ぎると、50肩や腰痛など体の不具合が顕在化する。

幸か不幸か(笑)
自分の場合、強制的に午前中15分
午後に15分、運動していた時期があり(笑)
その間、午前中はスクワット、腹筋、腕立てをそれぞれ50回ずつ、
午後は同様のメニューをこなしていた。

つまり1日、
スクワット、腹筋、腕立てをそれぞれ100回ずつ実践していたのである。
この生活習慣は現在も継続しており、
結果、そこそこスポーティーな体型をキープしている。

50肩や腰痛も経験があるが
ふだんに筋トレをやっているせいか
回復も早い。

高齢化すると
まずは筋肉が衰えてくる。
特に足腰の筋肉が衰え、
車いすを使うようになると
運動量が少なくなり、
ますます筋肉は衰える。

50代を過ぎると
筋力をつけ、筋肉をつけていくことは
健康を維持するうえで必須と考えている。
また老眼を防ぐためにも
顔ヨガは欠かせない。

50代の体づくりのためにも
筋トレは必要だと思う。

死について考える

50代も後半に差し掛かると
やはり自らの死について
考えるようになる。
特に両親とも他界した現在、
死はより身近なテーマとなった。

「人生の後半は死に向かう生を生きる」
こういったのは元文化庁長官で
ユング心理学の大家、河合隼雄氏である。
河合氏はだからこそ、人生の後半は
宗教的視座をもつことが重要と指摘している。

死生観をもつことは必然的に
宗教的思考へと導かれていく。
このことはつまり宗教的視座をもつことと同義であろう。

「苦難と死は人生を無意味なものにはしません。
そもそも苦難と死こそが人生を意味あるものにするのです」
こういったのは
アウシュビッツから生還した
医師ヴィクトール・E・フランクルである。

フランクルは死をネガティブなものとしてではなく、
生にポジティブな意味を与える「何か」としてとらえている。
若干、ニュアンスは異なるものの
自分の死生観における死の意味合いも
巷間いわれるようなネガティブな意味合いではなく
ポジティブな意味をもったものとしてとらえている。

そう考えるのも
輪廻転生を信じ、
普遍の生命を信じているからでもある。

端的に言えば
「死は新たな生への入り口」というイメージなのである。

もちろん、一方で、
事故や事件、災害や病などでの夭折
といった死はいたましいが。

死とは何か、と考えることは
宗教的な思考にならざるを得ない。
しかし、そう考えることで
現在の生の意味を再考することができる。

生きている意義と
生かされている意味について

これから何をやるべきか・・・
人生の後半は
自分が生きている意味を考えながら
明確な目的をもって生きることが必要になる。

自分の前世を考える②~奄美について~

奄美に行くと強烈なノスタルジーにおそわれる。
魂の故郷といってもいいような懐かしさを感じるのだ。

ずっと前から、
いつか奄美に行くだろうと予感していたが、
奄美に来てみて、
自分はかつて奄美に住んでいたのだという
確信にみちた印象を得た。

奄美に来た、というより
奄美に戻ってきた、という感覚が強い。

また、大島紬や泥染めの服を試着してみて
さらに自分の前世がわかったように感じた。

やたら大島紬や泥染めの服が似合うのだ。
しかも女性ものの服が・・・

昔から人から
女性的な資質を指摘されてきた。
某所では30代の若者から
「田中さんは小学生の女の子みたいだ」と
いわれたこともあり、
妻からは
「タクはお姉系だよね」などといわれたこともある。

自分のインスタグラムの画像を見て
「20代か30代の女性かと思った」とも
いわれたこともある。
といっても同性愛者ではなく
恋愛対象はあくまで女性ではあるんだが・・・

感性が男性のそれではなく
女性の感性なのである。

おそらく、前世は
奄美の少女だったと思う。
それもクリスチャン。

だから奄美の教会に行くと
これもまた妙にしっくりくるのだ。

なにか男性からの抑圧で夭折したのだろう。
そして今世では
女性ではなく、男性として生まれてきた、
しかも少女のころの感覚をそのままもちあわせたままで・・・
だからどこか大人になりきれず、
また妙にハンドメイドの女性ものアクセサリーに興味が惹かれてしまうのだ

という前世のストーリーが自分の中ではぴったりくる。
これまでの自分のなかの疑問が
すべて氷解したといってもいい。

これでからも奄美に行く機会は増えるだろう。
いや、奄美に行くというより
奄美に戻っているのだ。
魂の故郷に・・・