久しぶりに教会のミサに参加。
コロナの影響もあり、外出自粛期間中は、ミサも中止されていた。
自分は諸事情もあり、カトリックの洗礼を受けたが、臨済宗、曹洞宗、黄檗宗、真言宗、浄土宗、浄土真宗、天理教、パブテスト、キリスト教団、とあらゆる宗教の説法を聴いている。

キリスト教以外で特に影響を受けたのは禅宗(曹洞宗、臨済宗、黄檗宗)と天理教である。

信仰とはどこか思考がワープすることだと思う。
合理的思考を飛び越え、一気に飛躍し、ワープしていく心的過程のように思う。

しかし、そこに「心の救い」もあるように思える。

一人で考えてもどうしようもない時、自分ではどうしようもない壁にぶつかったとき、「ともかく神を信じるから」となんの合理性も、脈絡もなく、思考をワープさせていく(笑)。

でもそのような無茶な思考プロセスで、その人の心が救われるとしたら、やはり、それは信仰の力といってもいい。

おそらく近代的思考はこのような思考の飛躍や非合理性を否定していったために、「こころの救い」としての宗教の存在意義を失っていったのかもしれない。

とすれば、宗教の現代的意義とはもう一度「こころの救い」としての宗教を再認識することではないだろうか?

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です