「徐福伝説」推論②~徐福とは何者だったのか???~

<秦の始皇帝はユダヤ人???>
かつて「ふしぎ発見」で放映された秦始皇帝の皇子と皇妃の顔が遺体の人骨から復元されたという話。

秦始皇帝の遺体は発見されておらず、その息子と妻とみられる遺体が発見され、顔が復元されたということです。

これはどうみても漢民族の顔ではなく、中東系の顔です。

 

秦の始皇帝、姓は嬴(えい),名は政といいます。
徐福もまた「嬴姓徐氏」といわれ、もともとは「嬴(えい)」の一族であり、つまり、始皇帝とは同じ一族であることがうかがえます。

 

イスラエルの特務機関「アミシャーブ」(失われたイスラエル10支族 を調査した機関)によると、この「嬴」の一族はユダヤ系民族であるとしており、つまり、秦の始皇帝、徐福ともにユダヤ民族である可能性が高いのです。

<日本人と古代ユダヤ人に共通する遺伝子>

さて、90年代、「ヒトゲノムプロジェクト」により、日本人のルーツが遺伝子レベルで解析されました。その結果、どうやら日本人には古代ユダヤ人と共通した遺伝子が組み込まれているそうです。

 

日本人に渡来人との混血化が進んだのは紀元前3世紀の縄文から弥生への移行期。このころ、縄文人は4割そして紀元後3世紀には2割にまで減少します。

 

徐福は、この縄文人との混血化が進む紀元前3世紀に渡来しています。3千人の船団を引き連れて。司馬遷の「史記」によると、その中には技術者とともに女性や子どもも含まれていたようです。

 

つまり、徐福はもともと日本に永住するつもりで渡来していたのです。同じ一族であった秦の始皇帝もそのことを承諾していたのでしょう。

 

<徐福がユダヤのラビ族であったと仮定すると・・・>

徐福はユダヤ人という可能性が高いのですが、そもそもユダヤ人の定義とは何でしょうか?
それは母親がユダヤ人であることとされています。

ただし、ユダヤ12氏族のうち、唯一、父親がユダヤ人であることが求められる氏族があります。

それがラビ族です。

 

ラビ族はユダヤ教の祭祀をつかさどる一族で、代々司祭としての役割を担っていました。

さて、徐福がユダヤ人である可能性は極めて高いのですが、ここで、徐福がラビ族であったと仮定すると・・・・・

日本で、男系で、かつ祭祀をつかさどる一族といえば、もちろん天皇家です。

 

徐福が富士山の麓に王国を築いたのは資料からして間違いがなく、しかも当時、最先端の技術者を擁していたことを考えると、当然、天皇との関わりもあったことでしょう。

そして、のちに天皇の系統から「秦」の姓を名乗るものが現れます。

 

第27代天皇、安閑天皇の子ども「秦河勝」です。

皇室の系統で皇統を継ぐ者以外は「姓」をもちます。

「秦河勝」は紀元後6世紀から7世紀にわたって聖徳太子のブレーンとして活躍し、のちに兵庫県赤穂市にある「大避神社」に祭神として祀られることになります。

この「大避神社」はもともと「大闢神社」とされ、この「大闢」とは「ダビテ」の中国名です。

 

徐福がユダヤ人でラビ族の血統であるとすれば・・・・

それは決して荒唐無稽な仮説では決してないのです。

エビス信仰の謎~なぜ蛭子(ヒルコ)は蛭子(エビス)神になったのか?~

佐賀市内にあるエビス像は840体。
日本一の数です。
ずいぶん以前から不思議に思っていたのがエビス表記。
「蛭子」をなぜ「エビス」と読むのか?
どう読んでも「ヒルコ」。

しかし、エビス神のもともとの名前は「蛭子(ヒルコ)」なんですね。
イザナギ、イザナミの第一子です。
第二子が「オオヒルメ」、すなわち「アマテラス」
ふたりは兄妹の関係です。

「蛭子(ヒルコ)」はどうやら障害があったようで、3歳になっても足が立たず、船に乗せられ海に棄てられます。
ここまでは「古事記」の記述。

ところが13世紀になって突然、「蛭子(ヒルコ)」は龍神に拾われて育てられ、兄(??)のアマテラスに参内し、アマテラスから「お前は龍神に育てられて戻ってきた。これからは民のために働け」とさとされ、「夷(えびす)三郎」と改名し、西宮神社に祀られることになります。

妹である「アマテラス」がなぜか兄になり、第一子であるはずの「蛭子(ヒルコ)」はなぜか「アマテラス」「スサノオ」の弟、第三子の「夷三郎」になって、神格化されます。

なぜ、13世紀になってこのような創作がなされ、「エビス信仰」が生まれたのか??

その謎を探るヒントはやはり「13世紀」という時代背景と西宮という立地。

13世紀、鎌倉幕府が開かれて間もないころ。
源氏が政権を得るに、決定的な戦はいうまでもなく「壇ノ浦の戦」。
源義経は水軍の協力を得て、「壇ノ浦の戦」において、平家に壊滅的な打撃を与えます。
源義経が協力を得たのは、紀伊の熊野(和歌山)水軍200余艘、伊予(愛媛)の河野水軍150艘。

水軍とは海を生活圏とする海人族に組織された軍事力。
当時の海人族は水軍をもち、また海運や交易などでも経済力をもつ一大勢力。
政権を得たばかりの鎌倉幕府はこの海人族を味方につけておく必要があったはずです。

また、海人族は自らの正当性を得るために、アマテラスを主神とする中に自分たちの神を位置づけさせたかった。

そこで、海に棄てられた「蛭子(ヒルコ)」を蘇らせて、「アマテラス」の弟として「格下げ」し、「夷三郎」として前述のシナリオを創作し、新たに神格化させた。

そして、紀伊の熊野(和歌山)水軍と伊予(愛媛)の河野水軍の勢力が拮抗する立地「西宮」に「夷神社」を創建した。
海を守り、福をもたらす神として。

そう、七福神の福をもたらす神々が船でやってくるように。

このような推理は状況証拠からしてほぼ間違いないと思っています。
ちなみに、西宮の産婦人科ではダウン症の子どもが生まれると「福の神が生まれた」といい、祝福するそうです。
ちょっと、いい話ですね。

さて、なぜ、海から福の神々がやってくるという、神話がどこで生まれたのでしょうか??
ここでもう一歩踏み込んで考えてみるのも面白いかと・・・(笑)

日本でのその起点となった出来事があるはずで、おそらくそれは徐福にあったものだと考えています。

天山にみられる風水の痕跡

佐賀県北部にそびえる天山山脈。
「天山」という名称が秀逸です。
名前だけ見れば、霊峰「富士山」に勝るとも劣らないネーミングでしょう。

さて、この天山と同じ名称をもつ山脈が世界にもうひとつあります。
中国北西部、中央アジアに連なる「天山山脈」。
まるでこの中国北西部の「天山山脈」を知る渡来人が佐賀にきて「天山」と名付けたような名称です。

実は、この佐賀北部、天山一帯は風水によるまちづくりの痕跡がみられるのです。
まるで古代日本で風水の知識をもつ人物が計画したかのように。

風水によるまちづくりとは「四神相応の地」の形成です。
「四神相応」とは
東~青龍、南~朱雀、西~白虎、北~玄武

この風水と古代神道のアニミズムが融合し、古代日本では以下の解釈が生まれます。
東~青龍=神籬(ひもろぎ)~神籬は清流が走る豊かな森。だから青龍。
南~朱雀=靈(ひ)~靈は赤く照り輝く陽光。だから朱雀。
西~白虎=磐座(いわくら)~磐座は力強く白き岩山。だから白虎。
北~玄武=神奈備(かんなび)~神奈備は玄き武き山。だから玄武。さらに、その真上に輝きを放つ北極星。

天山のふもと、天山酒造の酒蔵がある地域を「岩蔵」といいます。
おそらくこれは「磐座(いわくら)」に由来するものでしょう。
すなわち白虎。
そして北の玄武は「天山」。

東の青龍、南の朱雀はどこか、おそらく佐賀県内のどこかにその痕跡はあるものと思われます。

さて、こうした佐賀北部、天山山脈にみられる風水の痕跡をみると、
この地域に風水の知識をもつ中国の渡来人がなんらかの風水による結界を形成した、とも考えられます。
それはだれか???

私が思い浮かぶのは徐福です。
徐福が日本にもたらした多大なる影響。
これを検証していくと、その影響がいまでも日本文化の底流に脈々と流れていることがわかります。
※参考図書:「棄てられた謎の神 ヒルコ」(戸矢学著)