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  • 私の読書遍歴「56歳からの挑戦」(加藤裕治著)

    加藤さんはもともとトヨタの労組の幹部を務めていた人である。
    その加藤さん56歳を機に弁護士を目指して
    仕事をこなしながらロースクールに通う日々を過ごすことになった。
    そして4年後、一発で司法試験に合格、
    現在はトヨタの顧問弁護士も兼ねながら
    労働問題に取り組んでいるそうだ。

    この本に出合ったのは3年前、
    まだ某医療施設にいた時期である。
    そうとうインスパイアされた。

    56歳から弁護士を目指すなど
    到底考えられないが
    それでも加藤さんはやってのけた。

    本の内容については示唆されることが多い。
    簡単に一部紹介すると
    「チャレンジに成功するために」の章では
    その要因を五つに要約してある。

    ①素直な人が合格する
    ②われ以外すべて師なり
    ③日々積み重ねるということ
    ④あきらめないこと
    ⑤あせらないこと

    他にも示唆される内容は多く、
    加藤さんの人生観、生き方は
    50代の同世代の人たちにとって大きな指針となるであろう。
    ご一読をお薦めします。

  • 受刑者との文通⑤

    30代の受刑者との文通も4通目。
    今日、書き終えて、月曜日にも投函する。

    残りの刑期4年間をどう過ごすのか。
    出所後の目標をもってそのための準備期間として
    無駄のないように過ごしてほしい、との旨を書いた。

    他に簿記の勉強もしているらしく
    まずは簿記3級を目指しているらしい。
    わかりづらいそうだ。

    自分も税務署の簿記講習を受けているが
    ポイントは
    ①仕分け
    ②損益計算書
    ③貸借対照表
    以上3点の関係がわかれば、スルッとわかるんだが・・・

    その関係を簡単に説明した。

    私は基本、受刑者に反省など求めない。
    それより、まずは自分を見つめることを求める。
    なぜなら、私が知る更生した元受刑者の多くが
    深く自分を見つめ、考察しているからだ。

    私が求めるのは反省ではなく
    自分自身を深く見つめることである。
    イメージ的には剪定である。
    腐った部分、無駄な部分をそぎ落とし、
    自分のコアとなる幹の部分だけを残す。
    そして伸びていく方向性を見定め、
    それに向かって努力していく、というものである。

    この心的プロセスこそ
    立ち直りの起点である、と確信している。

  • 50代の体づくりを考える

    敬愛するT先輩が腰痛で通院しているそうだ。
    50を過ぎると、50肩や腰痛など体の不具合が顕在化する。

    幸か不幸か(笑)
    自分の場合、強制的に午前中15分
    午後に15分、運動していた時期があり(笑)
    その間、午前中はスクワット、腹筋、腕立てをそれぞれ50回ずつ、
    午後は同様のメニューをこなしていた。

    つまり1日、
    スクワット、腹筋、腕立てをそれぞれ100回ずつ実践していたのである。
    この生活習慣は現在も継続しており、
    結果、そこそこスポーティーな体型をキープしている。

    50肩や腰痛も経験があるが
    ふだんに筋トレをやっているせいか
    回復も早い。

    高齢化すると
    まずは筋肉が衰えてくる。
    特に足腰の筋肉が衰え、
    車いすを使うようになると
    運動量が少なくなり、
    ますます筋肉は衰える。

    50代を過ぎると
    筋力をつけ、筋肉をつけていくことは
    健康を維持するうえで必須と考えている。
    また老眼を防ぐためにも
    顔ヨガは欠かせない。

    50代の体づくりのためにも
    筋トレは必要だと思う。

  • 死について考える

    50代も後半に差し掛かると
    やはり自らの死について
    考えるようになる。
    特に両親とも他界した現在、
    死はより身近なテーマとなった。

    「人生の後半は死に向かう生を生きる」
    こういったのは元文化庁長官で
    ユング心理学の大家、河合隼雄氏である。
    河合氏はだからこそ、人生の後半は
    宗教的視座をもつことが重要と指摘している。

    死生観をもつことは必然的に
    宗教的思考へと導かれていく。
    このことはつまり宗教的視座をもつことと同義であろう。

    「苦難と死は人生を無意味なものにはしません。
    そもそも苦難と死こそが人生を意味あるものにするのです」
    こういったのは
    アウシュビッツから生還した
    医師ヴィクトール・E・フランクルである。

    フランクルは死をネガティブなものとしてではなく、
    生にポジティブな意味を与える「何か」としてとらえている。
    若干、ニュアンスは異なるものの
    自分の死生観における死の意味合いも
    巷間いわれるようなネガティブな意味合いではなく
    ポジティブな意味をもったものとしてとらえている。

    そう考えるのも
    輪廻転生を信じ、
    普遍の生命を信じているからでもある。

    端的に言えば
    「死は新たな生への入り口」というイメージなのである。

    もちろん、一方で、
    事故や事件、災害や病などでの夭折
    といった死はいたましいが。

    死とは何か、と考えることは
    宗教的な思考にならざるを得ない。
    しかし、そう考えることで
    現在の生の意味を再考することができる。

    生きている意義と
    生かされている意味について

    これから何をやるべきか・・・
    人生の後半は
    自分が生きている意味を考えながら
    明確な目的をもって生きることが必要になる。

  • 自分の前世を考える②~奄美について~

    奄美に行くと強烈なノスタルジーにおそわれる。
    魂の故郷といってもいいような懐かしさを感じるのだ。

    ずっと前から、
    いつか奄美に行くだろうと予感していたが、
    奄美に来てみて、
    自分はかつて奄美に住んでいたのだという
    確信にみちた印象を得た。

    奄美に来た、というより
    奄美に戻ってきた、という感覚が強い。

    また、大島紬や泥染めの服を試着してみて
    さらに自分の前世がわかったように感じた。

    やたら大島紬や泥染めの服が似合うのだ。
    しかも女性ものの服が・・・

    昔から人から
    女性的な資質を指摘されてきた。
    某所では30代の若者から
    「田中さんは小学生の女の子みたいだ」と
    いわれたこともあり、
    妻からは
    「タクはお姉系だよね」などといわれたこともある。

    自分のインスタグラムの画像を見て
    「20代か30代の女性かと思った」とも
    いわれたこともある。
    といっても同性愛者ではなく
    恋愛対象はあくまで女性ではあるんだが・・・

    感性が男性のそれではなく
    女性の感性なのである。

    おそらく、前世は
    奄美の少女だったと思う。
    それもクリスチャン。

    だから奄美の教会に行くと
    これもまた妙にしっくりくるのだ。

    なにか男性からの抑圧で夭折したのだろう。
    そして今世では
    女性ではなく、男性として生まれてきた、
    しかも少女のころの感覚をそのままもちあわせたままで・・・
    だからどこか大人になりきれず、
    また妙にハンドメイドの女性ものアクセサリーに興味が惹かれてしまうのだ

    という前世のストーリーが自分の中ではぴったりくる。
    これまでの自分のなかの疑問が
    すべて氷解したといってもいい。

    これでからも奄美に行く機会は増えるだろう。
    いや、奄美に行くというより
    奄美に戻っているのだ。
    魂の故郷に・・・

  • 新しい人間関係を考える

    復帰して2年。
    人とのかかわり方が大きく変わった。
    いぜんはどこか人との関わりに
    自分を優位に置きたい、という気持ちが
    少なからずあった。

    それはおそらく多くの人にも
    程度の差こそあれ
    すくなからずあるだろう。

    学歴、職業、収入、名声、外見、住まいなどなど。

    そうした中でどこかで自分が優越感をもてる「何か」
    それを探ってしまう気持ちがどこかにあった。

    しかし、いまは
    「必要とされ、感謝される」ことを第一義としている。

    すると、随分、楽になるのである。
    自分をよく見せようとか
    余計なことを考えずに済むし
    等身大の自分でふるまえる。
    それが楽なのである。

    また、そうしたほうが人間関係はうまくいくことにも気づいた。
    そうしてみると
    それぞれの人がそれぞれの人生の課題を持っていることもみえてきた。

    だから、どちらの人生がいいかどうかという比較はまったく無意味なのである。
    それぞれがそれぞれの課題に取り組んでいる、
    ただそれだけなのだ。
    そして自分はただこれからの自分の人生の課題に取り組むだけで十分なのだ。
    それだけで意味のある生を生きることができるのだ。

  • これからの人生のテーマ

    社会復帰して今日でちょうど2年になります。
    今後自分がやるべきこととして

    大きく2つを上げています

    ①社会的価値の創造
    ②公益性への寄与

    ①、②について
    基本的にWEBマーケティングの普及による
    地方の中小企業の活性化がテーマです。

    ②について
    現在、関与している非営利活動は
    NPO法人のマザーハウス、
    犯罪被害者支援サポーター
    佐賀いのちを大切にする会
    以上、3団体になります。

    あとはいかにして
    社会的価値を創造しうるか、
    知恵の出しどころです・・・

     

  • 自分の前世を考えてみる

    某所で30代の青年から
    「田中さんは小学生の女の子みたいだ」といわれたことがあった。

    いわれてみて
    妙に納得するところがあった。
    ずっと思っていたのだが
    感覚が女性的なのだ。
    妻からも
    「タクはお姉系だよね」といわれたこともあり、
    そういうつもりはなくても
    どこか女性的なのである。

    だからハンドメイドのアクセサリーが好きだったり
    料理が趣味だったり、
    車は先日赤いPOLO(中古)を買ったりと
    自分が惹かれるものは
    女性が好きなものと符合が一致するのである。

    また、自分のインスタグラムの写真を見て
    「20代か30代の女性の写真かと思った」と
    いわれたこともある。

    そしてまた
    妙に大人になり切れないところがあり、
    同世代と話をしていても
    何か違和感を感じる時があるのである。

    たぶん、自分の前世は
    幼くして死んだ女の子だったのかも、
    と思うことがある。
    つまり今回は男として生まれたい、
    と願って生まれ変わったという感じがするのだ。

    しかし、
    最近はそういう女性的な感覚が
    サイト制作などでは
    うまく生きているような気がする(笑)

    奄美のハンドメイドアクセサリーのお店
    「Atelier lima」

    佐賀県基山町の
    「着付け・ヘアマイクの杠」

    どちらも女性経営者だが
    感覚が近いので
    クライアントが気に入りそうなものが
    なんとなく、ピンとくるのである。

    最近はいままでコンプレックスになっていた
    女性的感性を仕事でも活かそうと思うようになりました(笑)

  • 【大人の恋歌】~バラのつぼみ~

    蕾をあげよう。
    君の心で花咲くように。

  • 人生後半における宗教的視座~受洗して1年、いま思うこと~

    「苦難と死は人生を無意味なものにはしません。
    そもそも、苦難と死こそが人生を意味あるものにするのです」
    ~「それでも人生にイエスという」(ヴィクロール・E・フランクル)~

    人生も後半になると、程度の差こそあれ
    だれでも自分の死を意識する。
    私自身も昨年に父、今年は母と両親が立て続けに他界した現在、
    すくなからず自分も「死」を意識するようになった。

    「人生後半は死に向かう生を生きる」といったのは
    ユング心理学の大家であり
    元文化庁長官でもあった河合隼雄氏である。
    河合氏は死に向かう生を生きるにあたって重要なのは宗教観をもつことだとも言っている。

    なるほどなぁ、と実感として理解できる。

    私の場合は
    あらゆる宗教講話を聴講している。
    真言宗、黄檗宗、臨済宗、曹洞宗、浄土宗、浄土真宗、パブテスト日本教会、カトリック教会、天理教などなど・・・

    当時は救いが欲しかった。
    心のよりどころとなる何かを求めていたのである。

    社会復帰後、
    どういうわけか
    私の周囲はカトリックのクリスチャンばかりだったので
    こうなる運命だったのかな、と思い
    昨年8月15日に洗礼を受けた。

    ルカ(LUCA)は私のクリスチャンネームである。
    ルカは聖書の4つの福音書の一つを書いた聖人であり、
    他の3聖人マタイ、マルコ、ヨハネとは異なり
    唯一ユダヤ人ではなく、
    医者として、パウロの巡教に同行した人物である。
    よってクリスチャンの医者でルカのクリスチャンネームを使う人が多い。
    有名なところでは「聖路加病院」だろう。

    私が求めていたのは「救いの宗教」であり
    そうした意味からすると
    本来私の家系は浄土真宗であるが、
    浄土真宗とキリスト教は同じ「救いの宗教」として
    親和性も高く、共通するメンタリティがある。

    特にキリスト教は
    「罪の赦し」と「罪からの救い」を教義としており、
    もっとも自分にフィットしたといっていい(苦笑)

    受洗して1年たったいま
    やはりよかったと思える。
    心のよりどころができたからだろう。

    どの宗教を信仰するかどうかは個人の自由であり
    かりに特定の宗教を持たなくても
    「死に向かう生」を生きる人生の後半では
    なんらかの宗教観は必要だと思う。
    宗教的視座を持つ、と言い換えてもいい。
    そして死を意識することで
    死から照射される
    現在の「生」がより一層際立つ。

    とすれば、
    人生後半こそ
    「生」の意味がより一層浮き彫りにされてくる、
    といってもいいかもしれない。

    まさしくフランクルが言うように
    「死こそが人生を意味あるものにするのです」
    ということが人生後半において
    実感としてより深く理解できるのかもしれない。