昔ながらのかめ仕込で黒糖焼酎を製造している富田酒造場に行ってきました。
ここの黒糖焼酎は量産化されていないため知る人ぞ知る、という焼酎です。
有名なのは「龍宮」という黒糖焼酎。
買えるところは少ないのでなかなかてにはいりません。
でもおいしいのでお薦めの一品です。
昔ながらのかめ仕込で黒糖焼酎を製造している富田酒造場に行ってきました。
ここの黒糖焼酎は量産化されていないため知る人ぞ知る、という焼酎です。
有名なのは「龍宮」という黒糖焼酎。
買えるところは少ないのでなかなかてにはいりません。
でもおいしいのでお薦めの一品です。
愛のないモラルの押しつけは暴力以外の何物でもない、
つくづくそう思う。
モラリストの多くは
誰もが反論できないような概念をもちだし、
小さな戸惑いやためらいさえも
踏みにじる。
いわゆる
「人の道に云々・・」
「常識だろっ」という感じで。
そこには、相手に対する思いやりよりも
上から目線で
「言い負かしたい」
という意図が見え隠れする。
しかし、実はこうしたモラルの押しつけが
特に家族関係においては
小さな傷をつくり、
それがいつしか心をむしばみ
大きなブラックホールにつながるケースもある。
加害者家庭支援を行っている
阿部さんの著書「息子が人を殺しました」を読むと
犯罪を犯した人たちが
実は厳格な家庭で、
あるいはいたって平均的な家庭で
育てられていた、
というケースが多いのである。
愛のないモラルの押しつけが
心に傷をつくり、
それがいつしか歪みとなり、
たまったエネルギーが爆発した時
狂気となる、という事例もある。
人は弱く、
時に自分勝手で、
ずるくもある。
しかし、一方で
人から理解され、
理解しあいたいと願う。
元受刑者に対する多くの態度は
モラルの欠落が犯罪につながるものとみなし、
通り一辺倒のモラルを押し付ける。
しかし、それはまったく意味がない、
それどころか有害でさえある。
大切なことは、
相手を言い負かし、
従属させるモラルではなく、
それを守ることで
自分も、また周囲の人も
楽しく幸せに暮らせるためのルールである、
と知ることだろう。
そのとき、人はモラルを大切にする。
愛のないモラルは暴力以外の何物でもない、
それは誰もが反論できないような概念でもって
人の心の小さな戸惑いやためらいを踏みにじる。
モラルで人は救えない。
孤独と絶望の淵に立たされている人を救えるのは
罪の負のスパイラルから人を救えるのは
モラルではなく、「愛と希望」だ。
「裁判はどうだったんですか?」
「まずは検察側の冒頭陳述がありまして、それから、証拠調べの請求があります」
「緊張しましたか?」
「それはそうですよ」
「ただ、裁判長が女性だったのには驚きました」
「へ~っ、そうだったんですか」
「えぇ、〇〇法子さんという裁判長で、私はノリピーといってました」
「ノリピー、ですか・・・」
「それが眼鏡が似合う知的美人でして・・・」
「裁判の場でしょうに!」
「ええ、でも久しぶりに女性を見たもので・・
しかも黒の法衣に眼鏡がよく似合う女性でして・・・」
「不謹慎きわまりない・・・」
「まともに裁判長の顔をみれませんでした」
「それはどうして」
「いや、ニヤケテしまいそうで・・」
「それは印象悪くするでしょうね」
「それで、裁判ではあなたは出欠をごまかしたことは認めたんでしょう?」
「はい、それは認めました。」
「では暴力団組長との詐欺の共謀については?」
「実際には三傘とのあったのは1回きりでして、その場ではそういう話はなかったんですが・・・法的には共謀したことは認めました」
「えっ?だって三傘とは共謀の話はなかったんでしょう?」
「はい、そうなんですが、私は嬉野の末尾、久留米の早河とは最初からいとしていたわけではありませんでしたが、結局、出欠をごまかすことは共謀しましたし、彼ら二人はおそらく三傘と段取りを組んでいたはずですので、私が直接三傘と共謀しなくても、末尾、早河が三傘と共謀していたのであれば、間接的ではあるにせよ、私は三傘と共謀したことになるんです」
「えっ??そうなんですか?」
「はい、直接共謀はなくても間接的であるにせよ法的には共謀したことになります」
「う~ん・・・なんか不条理な話ですね」
「まあ、そうですが仕方ありません。ただ、私が開校前に認めていたのは遅刻や早退は大目に見るというくらいでしたので、まさか欠席をごまかす羽目になるとは思ってもいなかったんです」
「それがメールで『遅刻や早退は大目に見るが欠席のごまかしは糊塗できない』と送っていたことが証拠として提出されていました」
「そういうメールが残っていたことは不幸中の幸いですね」
「えぇ、ただ裁判ではやはり警察、検察の取り調べの実態がどうだったのかが、争点のひとつとなったのです」
「どうして?」
「私が裁判でひっくり返した供述がとられてしまった背景には何があったのか?ということがやはり裁判での検証すべき大きな争点となったのです」
「これは一般の人にはなかなかわからないことですが、やはり、取調室の密室の中では、恣意的に供述が捜査機関によって誘導され、ねつ造に近い供述がとられることの危険性があることを示すものでもあるからです」
「まあ、その辺のことはまた次回にお話を伺いましょう」
to be continued・・・・
昨年の8月15日に受洗して10か月がたちます。
LUCAのクリスチャンネームはもちろん聖書の中の「ルカの福音書」に拠っています。
ルカは他の福音書の著者、マタイ、マルコ、ヨハネとは異なり、唯一ユダヤ人ではない、当時としては異邦人であり、パウロの巡礼に医者として同行した聖人です。
つまり、ルカは知恵に満ちた聖人ともいえるでしょう。
人に生きていくうえで必要な言葉は
愛に満ちた言葉、
希望に満ちた言葉、
知恵に満ちた言葉、
そして、ほんの少しのユーモアだと思います。
そこで、最近は
自分の会社名もLUCAに変更したいと思うようになりました。
今はSEPIですが、
これはSocial & Environment Planning Instituteの頭文字をとったものです。
とはいえ、今はWEB解析とWEBマーケティングが中心ですから、内容は変化しています。
そう考えると
これからは会社名を変更して、LUCAでいいかな、と。
愛と希望と知恵に満ちた仕事をしていこうかと・・・
ちなみに、聖路加病院は「聖ルカ」から来ています。
読み方は「聖ロカ」ではなく「聖ルカ」ですね。
LUCAという名前のクリスチャン系のコンサルティング会社もあっていいかもしれません。
もう少し業績を上げて、経営体として体裁が整えば、会社名を変更します。
山口さん、ネットでたたかれてますが・・・
少なくとも、被害女性の女の子を
まるで「夜に呼び出されてうかうか行く方も悪い」という論調は言語道断である。
女の子は用心のため友人を連れて行ってもいる。
とはいえ、被害者と山口さんは示談はすんでおり、
第三者がとやかく必要はない。
しかし・・・・
山口さんの行為は批判されるべきものではあるだろうが
一番の問題は山口さんが再起を図るための
心の修復ができるかどうかだ。
反省しても意味はない。
反省したところで、
こころの病み(=闇)を修復しない限り
どこかで、罪へのスイッチが入るからだ。
福岡の高校名門サッカー部に所属していたM君という人物がいる。
彼はのちに福岡の教育大学に進学したものの
教師への道をあきらめ、風俗店経営を始めた。
順調だったものの
年齢も査証した18際未満の少女を雇ってしまい
児童福祉法違反などの罪で
5年間の懲役をくらった。
懲役先はいじめで有名な川越少年刑務所。
そこで、さらに病んでしまって
出所後、フランスの外人部隊に入隊、
アルジェリアでの戦場経験を終えて
日本に帰国。
初犯から9年後、罪を犯し2刑。
3刑目は人の口座にハッキングしての罪。
彼はこういった。
「オレ、子どものころ、オヤジからDVうけてたんですよね。
病んでますから、田中さん、仕事は無理ですよ」
反省は無意味だ。
反省したところで
心の病み(=闇)を修復しない限り
どこかで罪へのスイッチが入る。
罪のスパイラルから人を救うとしたら
それは「愛と希望」だ。
M君はいう。
「累犯刑務所に行っても
みんな『死にたいけど死ねないから生きてます』という感じです」
一度「罪のスパイラル」に落ち込むと
希望が失われる。
さらに、『愛される』機会は失われる。
「孤独と希望」の対極は
「愛と希望」だ
山口さんが
「孤独と絶望」の淵に立たされ、
いつか、
その対極にある価値、
「愛と希望」に向かって心の再起が図れることを
心から願っている。
Aさんとの対話は続く・・
「雑居房に移ってからはどうでしたか?」
「雑居房は私を含めて6人でした。同居人は刑務官から『ゆるいやつがくる』といわれていたようで、『ちょっとしめたろか』と思っていたそうです」
「いじめられたんですか?」
「いえ、それはありませんでしたが、ひとりだけちょっかいだしてくる妙なやつがいましたね」
「もともとそこの同居人は初犯の軽犯罪系の人ばかりだったので、元郵便局員とか、一部上場の会社社員だった人だったり、社会では普通の仕事をしていた人が大半でした」
「じゃあ、比較的まともな人ばっかりだったんですね」
「そうですね」
「ただ、当初は人との距離感がつかめず、間が取れない感じだったんです」
「へえ、そうなんですか?」
「はい、何しろ6か月間弁護士以外の人と話をしてませんし、弁護士とも週1回程度でしたので、人と話すのは久しぶり、という状態でしたから、『この人はなにを言っているのだろう』という感じなんです。人の話がピンとこないんですよ」
「コミュニケーション能力が落ちてしまったということ?」
「はい、そうですね。もともと人との付き合いがうまい方ではないんですが、さらに、わからなくなってしまっているという感じです」
「それでは、困りますね」
「ええ、でもその部屋の同居人はみんな初犯で、お互い励ましあうというメンタリティがあったので、それなりに過ごしやすかったですね」
「そういうものなんですか?」
「はい、みんな裁判を控えて不安な日々を過ごしてますし、1日中一緒ですから、お互いの人間性もわかってくるんです」
「家族でも1日中一緒にいることはありませんし、そういう意味では妙に情が移ってしまうんですよね」
「生活はどうでしたか?」
「まあ、お菓子も購入できますし、書籍類も購入できましたから、不自由ではありますが、それなりに楽しみもありました。ほかの人は将棋に夢中になってましたね」
「将棋はやったんですか?」
「いえ、私は弱かったので、しませんでしたし、大体、WEBの勉強か資格取得のための勉強に集中してました。」
「まじめですね」
「同居人からはそういうイメージがあったようで出所後も連絡があって、再会しましたね」
「裁判の方はどうだったんですか」
「裁判は紛糾しました。ポイントは私が暴力団組長を詐欺の共謀を図ったかどうかという点ですが、それはなかったんです。しかし、刑事と検事のしつこい質問と担当検事の『お願いだからさあ』という感じの態度で、迎合したんですけど、その供述を裁判でひっくり返したものですから、まあ、検察側はあせったようですね」
「そこらあたりの話はまた次回にいたします」
To be continued・・・
「自由は頭の中にしかない」というのが私の持論です(笑)
身体的、経済的、時間的に自由が制限されていたとしても
頭の中だけは自由です(笑)
思考することの自由、
これを至上としているため、
思考することをやめることは
私にとって自由を失うことと同義ですね。
知識を増やすことは
つまり頭の中の自由度を高めることになり、
それは結局、思考領域を広めることになります。
ということは、
それだけ頭の中の自由の領域は広がり
自身の可能性が広がることに通じます。
子どもたちにも
「勉強することは自分の可能性を広げること」
伝えてます。
英語はできた方が海外とのビジネスチャンスは広がる、
法律は知っておいた方が間違いを犯さず、有利である、
食に関する知識は生活が豊かになる、
などなど・・・
50代にしてそのことに気づかされた自分も
まあ、それでも遅くはないかと・・・・
そしてまた自分の場合、
書きたいことがたくさんあります。
それゆえに、土日、休日は
チョーインドア、インナー生活でして・・・
じっくり、でも少しずつ、
頭の中の自由を広げながら
自分自身を進化させていこうかと思っております。
先日、テレビで2000年(平成12年)5月3日に発生した
当時17歳の少年による
西鉄バスジャック事件の再現ドラマが放映された。
初めて知った、少年の事件を起こす以前のことを。
少年は学校でひどいいじめにあっており、大けがをしている。
この件について学校はきちんとした対応をとっていない。
また、学校への恨みを募らせ、
包丁を研いでいたところを母親が心配し
警察に相談したものの、
「事件ではない」ことを理由に母親の相談に対応しなかった。
また少年は、精神科に入院し、事件当日は外出許可をとっているのだ。
つまり事件の兆候はあったのだが周囲の大人がそれにきちんと対応せず、
また心を病んだ少年のケアも不十分だったのだ。
そういえば佐世保の女子高生の同級生殺人事件もまた
事件を起こした少女の病んだ心に気が付き
不安を抱いた精神科医が
児童相談窓口に連絡していた。
ここでも事件の兆候はあったのだ。
こうしてみると
社会はこれらの少年少女の事件の教訓を何も学んでいないことがわかる。
結局、こうした事件の後に起こる議論は
「少年法の改正」と厳罰化である。
しかし、事の本質は
事件の前にみられる兆候に対して
大人がきちんと対応していない、ということである。
社会で議論されることは
厳罰化による犯罪抑止、
ということに重きをなし
それ以前に重要な事件を起こすリスクのある
少年少女へのケアをどうするのか、
という議論が皆無である。
あまりにも偏りすぎる。
私自身は罪を犯した人の社会復帰の第一歩は
心の修復、回復が第一である、という考えに立脚している。
それゆえ、厳罰化による犯罪抑止よりも
心のケアによる、犯罪抑止の方が重要と考えます。
一見、狂気とも思えるような事件も
その兆候はあったのである。
そこに気が付き、心のケアを施していれば
上記2事件はなかったかもしれない。
そしてこれからは社会もまた
心のケアによる犯罪抑止に視点を置くべきだと思う。