ワイルドは罪の人であった。
故によく罪の本質を知ったのである。
~「善の研究」(西田幾多郎)~
ワイルドの作品は「サロメ」しか読んでない。
「サロメ」は聖書の中の
イエスに洗礼を授けた預言者ヨハネが
首をはねられ、
殺されるエピソードをモチーフにしている。
濃密なまでの罪の世界。
むせかえるほどの血と死の匂い。
サロメのヨハネへの倒錯した愛。
これほどまでの人間の罪の世界を
ダイナミックに描ききった
ワイルドの圧倒的な筆力、そして知力。
ワイルドは美しい妻をもちながらも
若い男性との男色に耽った罪で投獄された。
罪の本質。
それは人間の根源に通じるものだ。
元受刑者の社会復帰を支援している
NPO法人マザーハウスのお手伝いをしている中、
元受刑者の人たちを工事現場まで
送っていったことがある。
墨田区から渋谷区まで、
40分間ほどの間、
車中、そのなかの一人
30代後半のMさんと語り合った。
Mさんは3年の刑期を終えて出所し、
現在は定職にはついていないが、
日々の日当で生計をたてていた。
Mさんとの対話は
芸術、文化、歴史、宗教と
多岐にわたった。
圧倒的な深み。
まだ30代のMさんには
深い思索に基づいた言葉が発せられた。
Mさんは
受刑中、どうして自分が罪を犯したか、
それを自身の生い立ちから、
これまでの生き方を含め、
様々な角度から自分を見つめなおしたそうだ。
自身の内部にひそむ病巣。
それを取り除いてこそ、
罪から救われる。
Mさんはそう考え、
自身の罪につながる
本質的な部分からの
自己改善にとりくんだ。
そこには様々な思考が組み合わされている。
宗教、文化、哲学など。
罪を知る、ということは
人間の根源的な本質を見つめることでもあるのだ。
元受刑者が社会復帰する際に
求められることは
反省や矯正では決してない。
ましてや杓子定規なモラル観を
おしつけたところで陳腐なだけだ。
再生のための重要なプロセスは、
自分自身の本質に深く沈降し、
そこから罪につながる病巣を自覚し、
あるいは除去し、
そこから再度浮上していくことなのだ。
その内的プロセスこそ、
再生のためのコアである。
元受刑者に「反省」や「矯正」を求めることは
基本、的外れである。
自己の病巣に、罪の本質にどれだけ向き合い、
そこから、どう浮上するのか。
そこが起点なのである。
そのためのメソッドと理論構築こそ
これから求められることだ。
ケースを積み重ね、
理論を構築する。
そうすることで
新たな社会的価値を創りだすことができよう。
と、同時にそれは決して元受刑者のみに通じるものではなく、
罪からの救いという点において
広く、一般的に認められるべき価値でもあるはずだ。
罪。
それは決して法的な罪のみを指すものではない。
誰しもが年齢を積み重ねるほど、
過去の自分にひそむ罪を感じるはずだ。