熊本、美里町の天目茶碗

熊本、美里町の天目茶碗

お客さんの紹介で、熊本のとある工房に案内されました。
工房のあるじはKさん。
齢70代でありながら見た目は60代。

Kさん、もともとは土木工事や建設工事に従事していた人。
ところが、2014年、とある人が「あなたはやっている仕事はあなたがするべき仕事ではない。」といわれたそうで、その人に「いや、実は以前、竹炭を焼いている人に会った」というと、「それがあなたがやるべき仕事です。それをやりなさい。」と言われたそうです。

その後、Kさんが言うには「宇宙からメッセージが来る」んだそうで、それはまるで「奇跡のリンゴ」の木村さんのようですが、そこで「天目茶碗をつくりなさい」との啓示がきたそうです・・・・。

Kさん、これまで土木、建設業に従事していて、焼き物にはまったく経験がなく、しかも窯もろくろもない・・・・。

「できない」と思っていたところ、宇宙のメッセージ(???)は「あなたにはそれをやるために必要なものは与えられます」ということだったそうで、実際、焼き物を趣味としていた友人が他界して、その奥さんから窯やろくろの機材をゆずりうけたそうです。

その後、天目茶碗を制作し続けたところ、昨日、私がKさんのところに、お客さんの紹介で、初のご対面。

すると・・・・
Kさん「田中さん、佐賀からなんですね」

「はいそうです」

「8年前、宇宙からのメッセージで『あなたを助ける人が佐賀から一人でてきます』といわれたんですが、8年間、佐賀から来た人はいないので、田中さんが初めてです」とのこと。

「じゃあ、私がその一人ですかも」と冗談めかしていったのですが、Kさん、笑わず。

Kさん製作の天目茶碗をみながら、「これ、いいですね」と手に取ったのが写真の茶碗。
完成度が高く、いい感じの渋さ。

するとKさん、「それがいいんですか?」
「田中さんが自分の好みで茶碗を選んでいるようですが、実は茶碗が人を選んでいるんですよ。」
あっ、なるほど、それはわかるかも・・・。

茶碗が自分にふさわしい人を選んでいる、というのは、なるほど・・・・
自称、アーティストセンスがあると(笑)、思い込んでいる自分としては、こういう感覚は納得(笑)。

というわけで写真の天目茶碗を購入しました。

少々神がかったKさんですが、決して、ひとりよがりでもなく、妙に納得。
とてもいい方でした。












人にプラスの影響を与えること

人にプラスの影響を与えること

先日、飯塚のお客さんのところで、50代の女性の方ですが、カラーリングについて通信教育で資格取得にチャレンジするらしい。
どうも、私が



詩的感性を考える

詩的感性を考える

つながりとんぼはな、
病気のトンボを引っ張っていくだわ
お医者さんのところへ
(4歳のこども)

上の詩文は4歳の子どもの言葉を
それを聞いた大人が雑誌に投稿したものである。
決して、美文をてらったものではない。

しかし、この詩文を読んだ人の多くは
この4歳の子どもに誌的感性を感じるだろう。

言葉は単にプリズムにしか過ぎない。
言葉を輝やかせるのは
あくまでその人の感性だ。

人が見ているのは
言葉を使う人の言葉の先にある、
その人の感性である。

感性の光が
言葉というプリズムを通して
言葉ははじめて虹色に輝くのである。
言葉はその後ろにある
大きな世界があってはじめて美しいものになる。

同じひとつの言葉でも
それを口にする人によって
美しくもなり
汚くもなる。

そして人は
その誌的感性を通して
自分の周りの世界を
また、新しい視点で見ることになる。

何も変わらないような世界が
ほんの少し動的に変化する。
何も変わらないように
見えていた世界が
誌的感性を通して
新たな表情を見せるのである。

誌的感性。
それを持ち続けることが
常に世界を新鮮に
感じ、思えることの
秘訣なんだろう。

世界を見つめる視点。

世界を見つめる視点。

視点を変えれば、見方が変わる。
見方が変われば、認識が変わる。

世界をどう見るか。
その視点が大事だと思う。

写真を撮ったり
それをもとに動画をつくったりするのが趣味。
しかし、壮麗な風景を撮るというのは滅多にない。
日常の他愛ない風景。

世界は美しい。
神は細部に宿るともいう。
その細部にある美を見つめることができるかどうかだと思う。

年齢を重ねると、変化に乏しい日常に、
感受性が鈍ってくる。
しかし、それでも、他愛のない日常に美を見出していく作業。
それは、私にとっては写真を撮ったり、動画をつくったり。

他の人にとっては絵をかいたり、和歌や俳句を詠んだり。
和歌や俳句は言葉のスケッチブックのようなもの。
そんなことができる人は健全な感受性を持ち合わせている人だと思う。

変化のない日常に美がないということではなく、
私たちの感受性が日常に美を見出すのだ。



人生の後半、自分を振り返る

人生の後半、自分を振り返る

人生の後半、
ユング心理学の大家、河合速雄先生は「人生の後半、人は死に向かう生を生きる」と語っていました。

未来は狭まり、これまでの生の足跡が累積してくる。
おそらく、だれもが50代後半にもなると「これからの自分」と同様に「これまでの自分」を振り返ることも多いと思う。

嫌なこと、楽しかったこと、幸福な時間、不幸な出来事。
それらを少し俯瞰して見つめてみる。
たぶん、そう考えてみることもあるだろう。

たぶん、大事なことは「楽しかったか」「悲しかったか」、「不幸だったか」「幸せだったか」という価値基準を超えて、「それが自分の人生にどういう意味があったのか」という観点で考えることができるかどうかだと思う。

自分の人生の中で、それぞれの出来事が「どういう意味があったのか」。

不幸な出来事に遭遇したとしても、それが何かしら自分の人生を変えていったとしたら。
もちろん悪い方向に変えていったとしたら困ったことだが、「不幸な出来事」に出会って、価値観が変わることもあり、生き方が良い方向に変わることもある。

それは幸か不幸かという基準ではなく、「どういう意味があったのか」という観点でみないと、わからない。

神がいるとして、神がなにかしらそれぞれの体験を通して「何かを伝えたい」としたら。
それらは神の恩寵なのかもしれないではないだろうか。
たとえ、それがひどくつらいものであったとしても。

遠藤周作がテーマとしてきた「神の沈黙」。
その沈黙にある神の愛を信じてみるのもいいかもしれない。