Clitical(批判)からCreative(創造)へ

Clitical(批判)からCreative(創造)へ

健全な批判は必要だ。
だが、批判が知的生産活動であるためには
2つの要件が必要だと考えている。

一つは批判することによって
新たな知見が見出される場合である。

もう一つは、批判の対象へのアンチテーゼとして
それとはまた別の
新たな価値を創造することだ。

健全な批判力は必要だ。
しかし、えてして
それが単なる感情の吐露にすぎない場合も多い。

昨今の国会での討論が不毛なのは
政権批判にまったく新たな知見を
見いだせないことだ。
また、政権への批判をテコに
新たな政策を提案できるほどの
創造性もない。

あるいは
自身の歪んだ自己承認欲をみたさんがために
人を批判するといった卑屈な人もいる。

北野武のTVでの圧倒的な毒舌による批判力も
それは、
彼自身の映像分野等での創造力に反映している。
北野武の批判力は芸術分野での創造力につながっていることがわかるからだ。

批判が知的生産活動であるためには
そこから新たな知見を見出せるか、
あるいはまったく別の価値を創造するかだ。

でなければ批判する意味も価値もない。

*写真は「ブルーベリー」
花言葉は「知性」

不幸の意義を考える

九州は台風の通り道だ。
年平均3.2~3.3回ほど台風が通過する。
時には甚大な被害をもたらし、
家屋の損害、死傷者が出てしまうこともある。

だが、その台風も、地元の漁師さんにとっては
決して、災いをもたらすもの、というだけではない。
台風が来ることにより、海が荒れ、
海底が掘り返されることによって、
海草が豊かになり、結果、牡蠣の豊作などにつながるという。

人間にとって不幸な災害であっても
それはまた別の側面も有しているのである。

人生には不幸なアクシデントはつきものだ。
時に失意し、絶望の淵に立たされる。

しかし、その不幸な出来事も
別の側面が必ずあるはずだ。
「不幸な出来事」の裏には
何かしら別の意義を見出せるはずだ。
別の道に通じる何かを・・

アウシュビッツ強制収容所から生還した
ビクトル・E・フランクルは次のように語った。
「人間はあらゆることにもかかわらず
強制収容所の運命の下にあったとしても
人生にイエスということができるのです」

一見不幸と思える出来事は
おそらく、私たちに何かを問いかけているのであり、
その「答え」はそれぞれの自由な意思にゆだねられている。

何を見出し、どこに行くのか。

おそらくもっとも不幸なことは
不幸な出来事を不幸なままに受け止めていることだ。

その背後には必ず何かしらの意義を見出せるはずだ。
そして神は私たちがその意義を見出すことを待ち望んでいる。

*写真の花はガーベラ
花言葉は「前進」

Re-Start For Happy Life~元受刑者Aさんとの交流~

キリストは常に罪ある人とともにいた。
そして自ら十字架の上にあるときでさえ
罪ある人のために神に祈った。
罪ある人にこそ神の愛と赦しは必要だからだろう。

元受刑者Aさんと連絡を取り合い始めて、
2週間ほどになる。
Aさんは現在、建築CAD1級の資格取得のために
職業訓練校に通っている。
年代的にも私と近く、
趣味が同じ料理なので話も合う。
ほんとに「気のいいただのおっさん」である。
8月には福岡で会う約束をした。

一般論として。
支援する側と支援される側との関係は難しい。
支援される側は支援する側よりも
圧倒的に劣位に立たされるからだ。
その関係を良好なものにするためには
支援する側が支援される側の痛みを
知ろうとすることが肝要だろう。

これが障碍者福祉や高齢者介護福祉の分野であれば、
一般的に多くの人は支援される側の痛みを知ろうとするだろうが、
元受刑者に対しては、
まず、そういうことはない。
「同じ人間」というより
「人格破綻者」のようにみてしまうからである。

それゆえ、社会は「元受刑者」反省を求める。
しかし、元受刑者は反省を強いらされるために
刑務に服したのであって、
つまり、出所後、求められるのは
「反省」ではなく、
いかにして再犯せず、社会復帰をしていくかが
問われているのである。

そのため、法的には昨年12月に「再犯防止推進法」が施行され
再犯防止のためには、元受刑者の出所後の
社会復帰を支援することが法的にも明記され、
各自治体もそれにのっとった対策が講じられるようになった。

http://www.moj.go.jp/hisho/seisakuhyouka/hisho04_00049.html

しかし、それでも元受刑者の社会復帰は困難で
私が知るある30代の男性も
地元佐賀県を離れて、四国で生活している。
もともと農家なので、
地元でもう一度再スタートできないことはないはずだが、
結局、居づらいようだ。

支援する側と支援される側との間には
何らかの共感を持ちえないと、
良好な関係をもちえない。
元受刑者の社会復帰の支援といっても
おそらく、多くの人は支援する動機となる
「共感」をもちえない。

唯一、「だれもが罪を負い、
その罪からの救い」を教義とする
クリスチャンの方に限って言えば
元受刑者の「罪からの救い」は
宗教的にも支援する動機となりえる。

「罪を負い、その罪からの救い」を求める
といった点において、
元受刑者もまた私たちと同じである、
と考えるからだ。

元受刑者の社会復帰のための
新たなパラダイムをつくっていきたい。

 

*写真の花はトルコキキョウ
花言葉は「希望」