自己治癒力を考える

「心理療法の根本は、クライアントの自己治癒力に頼ることだ」(河合隼雄氏)

これはユング心理学の大家、河合隼雄氏の言葉です。
この人間観は私の考えと一致します。

私自身も誰もが自己治癒力を有していると考えており、
自己の根源的な部分に立ち返り
最も深い部分の自分に出会うことによって、
生きていくうえでの多くの知恵は
そこに、用意されている、
と考えています。
それを私はDNA(Divine Natural Awareness:聖なる自然の知恵)と呼んでいます。

河合隼雄氏はユング心理学を東洋的に解釈する中で
私たちの意識の根源に仏教的な要素があることを指摘しています。
直接的には言及してはいないものの
輪廻転生のことにもふれてはいます。

仮に輪廻転生が真理として、
私たちは各々の生の中で
「生きる意味」があり、
「生まれてきた意義」があると考えていいでしょう。
であれば、私たちはそれに応じた知恵(DNA)を
意識的、無意識的に有しているといっても
決して間違いではないでしょう。

あるいは、ユングは人類に普遍的に共通する意識の層を「超意識」と呼んでますが。

しかしながら、その自己治癒力がうまく機能しない場合もあり、
そのため、河合隼雄氏は
「自己治癒能力がうまく機能しない場合もあり、そのため心理療法家が必要になる」という主旨のことを述べています。
しかしながら、その場合の心理療法家のサポートとは、相互作用の中で発揮されるもので、それはクライアントと心理療法家の間で主従関係が生まれるものではありません。

このようなことを考えると、
一般的に人を支援していく、
サポートしていく、というのは
おそらく、相手の自己治癒能力を信じて、
その力をうまく発揮させるように仕向けていくことだと確信しています。

さて、12月22日に熊本大学法学部のセミナーで
岡田教授と加害者家族支援をしている阿部さんの講義を受講しました。

加害者家族の状況は悲惨です。
本来は、加害者家族が瓦解しないよう、
なんとか支えて、加害者自身が更生するための基盤となるはずべきはずなのに
社会全体で、加害者を出した家族を責め立てるという風潮が「常識」となっています。

では、その「常識」が世界の「常識」かというとそうではありません。
阿部さんがいうには
「海外では加害者の家族がマスメディアの取材に応じて、答えるという場面もあり、実はそうした家族には励ましの手紙が届く」らしい。
つまり、海外(特にキリスト教国)では
加害者を出した家族を支援することが
ひいては加害者の更生につながる基盤につながるものと
認識されているのです。

もちろん、加害者の家族に問題がなかったということではありません。
逆に犯罪を通して家族の問題が顕在化されたという側面もあります。

しかし、それを認識し、修復するのは
その家族の固有の問題であり、
第三者がその固有の問題にとやかくいっても
まったく、無意味なのです。

あえていえば、
それぞれの家族が犯罪を通して
それまでの歪みを認識、修復し、
回復することが重要なのです。

しかしながら、社会全体は
「犯罪者を出した家族」に対しては
まるで連帯責任のごとく
責め立てるのです。

そのことでその家族が崩壊し、
その結果、加害者が社会復帰する基盤が
失われたとして、
それがまた、犯罪につながってしまうという
負の連鎖を生み出していることに
社会全体が気づいていない、ということです。

日本の再犯率は6割と
先進国の中でも非常に高いそうです。

それにもかかわらず、
「加害者家族支援」については
批判的な人も多いのです。

曰く、
「加害者家族支援よりも被害者支援の方が重要」という意見です。

では、「被害者」に対して、社会全体が本当に支援しているかといえばそうではありません。
いや、社会全体がまるで「被害者」にも落ち度があるように責め立てているのが実態です。

私は熊本市にお住いの3歳の娘さんを平成23年に殺害されたSさんのお話を直接お聞きました。
娘を殺害されて、さらにSさんのところには「おまえが子どもをきちんとみていなかったからだ」という批判にさらされます。

さらにいえば、性被害者に対する
「おまえがそういう恰好をしているからだ」といった
まったくピント外れの批判も多いのです。

これが社会の実態です。
こういう状況がいいのか、ということですが、
ここで優先すべき課題は
まずは、被害者側の心のケアでしょう。
しかし、実際には被害者も責め立てているのが実態なのです。

つまり、「あなたの責任である」という命題を
相手を責め立てる方便としてしか使っていないわけです。

私自身も全ては「あなたの責任である」という考えですが、
それは、その人自身に「自己治癒能力」があり、
そこに立ち返り、
周囲の理解があれば
立ち直れる、という意味で使っております。
つまりスタンスがまったく異なります。

さて、元受刑者の社会復帰にしても
また、これまでのまでの「常識」が必ずしも有効とはいえません。

熊本大学の岡田法学部教授にいわせると、
「反省しろ、反省しろ、と頭を押さえつけて、
社会の隅っこに追いやっている。
与える仕事も肉体労働ばかり」というのが実態です。

イギリスの研究によると
実際に社会復帰している元受刑者の多くが
「人から受容され、評価されたころが復帰のきっかけになっている」
そうです。
元受刑者に対して反省を求められるるのではなく、
社会に有益な行動を求め、
ヒューマンリソースとして
活用していくことの方が
社会全体としては最適であるはずです。

ところが、「社会の隅っこにいろ」とばかりに
追いやってしまっていることが
再犯につながっていることに気付くべきでしょう。

「すべてはあなたの責任である」
それは私にとって、
誰しもが自己治癒力を有しており、
よって、そのひと自身の力で十分回復できる、
修復できる、立ち直れる、という意味です。

相手を突き放し、責め立てることばではありません。


 

 

量子物理学的に世界を考える②

量子物理学の初歩
「観察されるもので、観察者に影響されないものはない」

量子物理学においては量子の働きは観察者によって変化するらしい。
有名な二重スリットの実験では
観察者がいるのといないとで、
量子は波と粒子の性質を使い分けていることが明らかになっている。
さらにいえば、観察者によって量子は過去の性質も変えているらしいことがわかっている。
未来が過去を変えることを「逆因果」の法則といわれている。

こうしたことを考えると、
究極的には「客観的な事象」はなく
すべての事象は「主観的」であるともいえる。

主観とは
その人の見方であり、
見方が認識をつくり、
認識が経験をつくる
といってもいいだろう。

そこで、このことを私たちの人生観にあてはめて考えてみる。

阿蘇在住で、両手がなく、義手で絵を描く大野勝彦さんという画家がいらっしゃる。
阿蘇にある「風の丘阿蘇大野勝彦美術館」には一度見学したが、
すばらしい作品が展示されていた。

大野さんは平成元年 農作業中、機械により両手を切断した。
しかしその後、義手で絵筆をとり、
詩作にふけり、その作品が多くの人の共感を呼んでいる。

さて、ここまでいうと、
大野さんが悲劇的な事故を乗り越えた
芸術家、というイメージで称賛する人が多いだろう。

しかし、大野さんは
そのようなイメージで見られることを嫌ってもいる。
なぜなら彼は
両手をなくした今の人生が有意義で満たされているということを
あらゆる機会を通して発言しているからだ。

もちろん、そのような認識に至る数年間
大野さんが苦悩していることは
美術館の作品からも明らかである。

だが、現在の大野さんは
両手をなくしたことについて
逆によかったとさえも発言している。
それはあくまで大野さんの主観であるのだが。

しかし、すべての事象が主観によるものだとしたら、
それは外界の条件に寄ることなく
人は常に自由な存在でありつづけ、
新しい可能性を自ら創造することができることをも示している。

さて、前述の大野さんの事例を考えてみる。
大野さんの事故、
両腕を農機器で失った、という事故は
不幸以外の何物でもない。

ご本人も悲嘆にくれる日々を
数年間、送ってはいる。

しかし、その後の大野さんは
両腕がないこと自体が不幸とは考えず、
それどころか充実し満ち足りているともいっているのだ。

もちろん、それは大野さんの「主観」であり、
それを「客観的に」評価することはできない。

しかし、だからこそ
大野さんは「客観的な」評価に寄らず、
自分自身の人生を豊かに生きることができるのである。

すべてが「客観的に」評価され、
それに基づくものであれば、
「客観的に」不幸で悲劇的な事象がおきれば
人は常に「不幸」であることになる。

しかし、すべては「主観的」であるとすれば
外界の事象がどうであれ、
それを「主観的に」受け止め、解釈し、
そこに「意味」や「意義」を見い出せれば、
その人は外界の事象に縛られることなく
自由に生きることもできるのである。

完全に「客観的な」事象はありえない。
少なくとも現代量子物理学では。

すべての事象が観察者に影響されるということは
どのような主観をもちえるか、によって
すべての事象も変わりえることであり
主観の持ち方そのものが重要である、ということでもある。

つまり、主観はその人の見方であり、
見方が認識をつくり、
認識が経験をつくっている、
といってもいい。

であれば、
私たちの見方を変えることで
私たちは外界に限定されることなく、
経験、その意味や意義を変えていくことができる、
ということもいえるのだ。