映像を撮る、世界を見つめる、「視る」ことを共有する

映像を撮る、世界を見つめる、「視る」ことを共有する

写真を撮る、動画を撮る。
映像をとる。

自分にとって、それは、日常の世界と向き合い、そこに美を見出す行為。

世界の一瞬一瞬を映像に切り取っていきたい、
日常という世界の細部に宿る美を映像に残したい。
そして、その映像を「見る」人と世界を「視る」ことを共有したい。

人が映像を見る時、
その映像をつくりだした人と
視点を共有する。

映像の鑑賞者は
撮影者と「視る」ことを共有するのだ。
そこに、世界観を共有する一瞬が生まれる。

僕は映像を撮り続ける。
僕が視る世界、
僕が感じる日常の中の美。

神は細部に美を宿した、という。
日常の中の細部。
そこにも美はある。

視覚の中で、だれかとそれを共有する。

僕にとって
映像を撮り続けるということは
そういうことだ。

武雄市北方町の高野寺

武雄市北方町の高野寺

武雄市北方町にある高野寺。
当寺のホームページの解説によると
「高野寺は千二百年余り前、弘法大師空海によって開かれた古刹です。鎌倉時代の古文書には『いかなる罪人も高野寺の境内に走り候えばその罪も免じる』とあります。
山門をくぐれば、慈悲深い仏の懐にも似た深く静かな佇まい。」

なんとあの空海が開いたお寺なんですね。

本当の見どころの時期はシャクナゲ20種、1000本以上が咲く、4月初旬より5月初旬。
また、紅葉が見事な11月中旬。

もちろん造形された庭園や建物などは空海以降の空間でしょうが、それでも、空海の世界観、宗教観、美意識の一端を体感することができます。

さすが、空海ですね!!


人を理解するということ

子どもの頃、よく遊んだ遊園地に行ってみる。
ひどく狭く感じられる。
子どもの頃は、そこで野球やったり、肉弾という遊びをやったりと狭く感じれられることはなかった。

遠足となると1か月前から毎日が待ち遠しく、1日がひどく長く感じられた。

それが、大人になるとまるで違って感じられる。
すると、子どもを理解するというのは
一度、子どもの目線に立ってみないとわからないのかもしれない。

子どもの視点に立ってみる。
子どもの視点から見える世界。
子どもが見ている世界に
自分も立って同じ世界を見てみる。

しかし、それは子どもに対する理解のみならず、すべての人にも通じるようにも思う。

人を理解するということは何か。

何を感じているのか。
何を見ているのか。

人を理解するというのは
つまり、その人が見ている世界を同じ視点に立ってみてみることだと思う。

一度、自分の立場から降りてみる。
相手が見ている世界とは何なのか、
何を見ているのか、
どんな世界が見えているのか。
それを共有してみる。

人を理解するというのはそういうところから始まるのだと思う。