人にプラスの影響を与えること

人にプラスの影響を与えること

先日、飯塚のお客さんのところで、50代の女性の方ですが、カラーリングについて通信教育で資格取得にチャレンジするらしい。
どうも、私が



詩的感性を考える

詩的感性を考える

つながりとんぼはな、
病気のトンボを引っ張っていくだわ
お医者さんのところへ
(4歳のこども)

上の詩文は4歳の子どもの言葉を
それを聞いた大人が雑誌に投稿したものである。
決して、美文をてらったものではない。

しかし、この詩文を読んだ人の多くは
この4歳の子どもに誌的感性を感じるだろう。

言葉は単にプリズムにしか過ぎない。
言葉を輝やかせるのは
あくまでその人の感性だ。

人が見ているのは
言葉を使う人の言葉の先にある、
その人の感性である。

感性の光が
言葉というプリズムを通して
言葉ははじめて虹色に輝くのである。
言葉はその後ろにある
大きな世界があってはじめて美しいものになる。

同じひとつの言葉でも
それを口にする人によって
美しくもなり
汚くもなる。

そして人は
その誌的感性を通して
自分の周りの世界を
また、新しい視点で見ることになる。

何も変わらないような世界が
ほんの少し動的に変化する。
何も変わらないように
見えていた世界が
誌的感性を通して
新たな表情を見せるのである。

誌的感性。
それを持ち続けることが
常に世界を新鮮に
感じ、思えることの
秘訣なんだろう。

世界を見つめる視点。

世界を見つめる視点。

視点を変えれば、見方が変わる。
見方が変われば、認識が変わる。

世界をどう見るか。
その視点が大事だと思う。

写真を撮ったり
それをもとに動画をつくったりするのが趣味。
しかし、壮麗な風景を撮るというのは滅多にない。
日常の他愛ない風景。

世界は美しい。
神は細部に宿るともいう。
その細部にある美を見つめることができるかどうかだと思う。

年齢を重ねると、変化に乏しい日常に、
感受性が鈍ってくる。
しかし、それでも、他愛のない日常に美を見出していく作業。
それは、私にとっては写真を撮ったり、動画をつくったり。

他の人にとっては絵をかいたり、和歌や俳句を詠んだり。
和歌や俳句は言葉のスケッチブックのようなもの。
そんなことができる人は健全な感受性を持ち合わせている人だと思う。

変化のない日常に美がないということではなく、
私たちの感受性が日常に美を見出すのだ。



歩き方を考える

歩き方を考える

昨日、数人で波佐見から飯塚まで。
途中、高速の金立SAで休憩。
そこで、運転手を務めていた50代後半の男性が歩いている姿を見て
70代の経営者が
「あいも、とぼとぼ歩くようになったなあ」とつぶやいた。

その男性、少しメタボ気味。
たぶん、筋力が弱っている。
贅肉が増え、筋肉が落ちていく。
中高年にありがちな傾向である。

脚力も同様に弱っているだろう。
すると、歩幅が小さくなって「トボトボ」歩くようにみえるのである。
そのうえ、背筋もよわると、前かがみで「トボトボ」歩くようになってくる。
そうなると老けて見えるのである。

さて、これが、二本の線上を歩くイメージで歩くと
なにやら「堂々とした」「威厳のある」歩き方になる。

一本の線上を少し内またで歩幅を小さくして歩くと
ちょうど、和服を着た女性の歩き方になる。

同様に一本の線上を上体を揺らしながら歩くと「ちゃらい」印象になる。

一番きれいな歩き方は一本の線上をがに股にならないくらいに少し足の向きを外に向けて背筋をまっすぐにして歩くこと。

きれいに歩くためには、地面をきちんと蹴り上げる脚力と、歩いても背筋をまっすぐ伸ばせる背筋力が必要。

歩き方ひとつみてもその人の筋力や人柄がみえてくるのである。