自己責任論を考える

自己責任論。
私もその立場にいる。
しかし、一般的にある自己責任論にはなぜか違和感がある。

いわゆる一般的に・・・
「そりゃ、お前の責任だろ?」
よくそう言う人がいる。
それが仕事の場面ではいいかもしれない。
しかし、その人の人生の場面ではどうだろう?

どこか相手を突き放した感があるのだ。

そしてそういう人ほど次に続く言葉が
「それが常識だろ?」となる。

これでほとんどが思考停止に陥るのだ。
なにか違う。
そうではないのでは???

これは私自身の宗教観にもよるのだが、
だれもが、それぞれの意味、意義をもって生まれてきた生命であるという人間観に基づいている。

その認識に立てば
それぞれの個人がより自分の心の深い部分で
自分と向き合い、
「自分とは何か」ということを突き詰めて考えていけば
自ずと答えは出るものという、結論に至る。

とすれば、
自己責任論は
少なくとも私にとっては
「それはあなた自身で答えは出せるし、
あなたにはあなたの生の意味があり、
生きる価値があるのだ」という意味である。

だから、だれしもが
自己治癒力、自己再生力があり、
それを信じることが
自己責任論につながる。

人はだれしもがそれぞれの生の意味をもっているものだ。
それが私の自己責任論である。

フランクルの命題「人生の意味を問うてはならない。 人生に 問われているのは我々である。」を考える

「そもそも
我々が人生の意味を
問うてはいけません。
我々は人生に
問われている立場であり
我々が人生の答えを
出さなければならないのです。」
ヴィクトール・フランクル。
アウシュビッツから生還した精神科医。
彼の著作「夜と霧」は生と死、人生への深い思索に満ち溢れている。

フランクルはアウシュビッツで家族を失った。
彼のみが生還し、その後、アウシュビッツでの経験をもとに、「夜と霧」を書き記した。

死が日常的にあるアウシュビッツでの生活は孤独と絶望の極限であったろう。
だが、フランクルはそれでも意味があると説く。

だれにでも不幸なことは起こりうる。
そして人は運命に、人生に、神に、
こう問いかける。
「なぜ?どうして?」と。
だが、だれも、何も答えない。

問いかけているのは人生であり、
問われているのは私たち自身である、
とフランクルは言う。

しかし、これは救いではないだろうか?
起きた事実はかえようがない。
しかし、起きた事実をどのように解釈していくか、
私たち自身にはその自由が残されている。

起きた事実にどのような意味があるのか、
それに意味を見い出す自由が私たちには残されているのだ。

おそらく、
不幸なことを
不幸なこととして解釈していることが
最も不幸なことだろう。

不幸な出来事にも
意味があり、
その意味をどのように解釈するかで
不幸な出来事が「意味ある出来事」に変容した時、
不幸な出来事はそうではなくなる。

フランクルの命題は「救い」である。
どのような「不幸な出来事」であっても
私たちはそこに「意味」を見い出し、
解釈する自由が残されているからだ。

冤罪を考える

ハインリヒの法則というのがある。
損害保険会社に勤めていたハーバート・ウィリアム・ハインリッヒが提唱した法則。
ある重大事故が起きた場合、それに関連する軽微な事故が29件発生し、また、そのような事故を発生するリスクのある「ヒヤリ・ハット」が300件あるというもの。

熊本県では死刑囚の再審請求が初めて認められ、無罪を勝ち取った免田栄さん、松橋で殺人事件の犯人とされ、のちの再審請求により無罪を勝ち取った宮田さんの冤罪事例がある。

さて、死刑囚の再審請求により無罪を勝ち取った事例は4件あり、ハインリヒの法則に当てはめると、軽微なものも含めて1200もの冤罪の可能性がある事件があることになる。

ある経営者の体験。
談合の疑いで任意の事情聴取を受けたらしい。
ところがこの情報が警察の方からマスコミにリークされ、氏名、会社名が新聞紙上で公表された。
結果、事件性はなく、逮捕には至らなかったものの、信用を棄損されたことは痛手であることに変わりはない。

私が直接知る人物で2名ほど殺人の冤罪を訴えている人がいる。ひとりは22年の服役後、再審請求中であり、もう一人は14年の服役後、東京の下町で、地元住民とも交流し、普通の生活を送っている。

冤罪。
これほどの人権侵害はないのだが、それがうまれてしまう背景、原因について、深く取材するジャーナリストは少ない。
私が知るところでは江川紹子さん、ジャーナリストではないもののユーチューブなどでこうした問題を論考している釣部 人裕さんくらいである。

冤罪の背景にあるのはほとんどが「無理な自供」であり、また、捜査の見立てに会った「自供」のみを得ようとする取り調べである。
さらに、悪質なのは捜査の見立てにそぐわない証拠の取り扱いである。これは特に袴田事件で顕著であった。

このような冤罪がうまれないよう、社会的議論が必要であるはずだが、どこか「自分には関係ない」といった風潮も感じられ、これほどの人権侵害に対する再発防止に対する社会議論は少ない。

こうした問題提起をしていくことも必要だと思う。