受刑者との文通④

受刑者からの手紙が来た。
これで3通目である。
面識のない私と文通しているのだから
つまり、家族との交流もないようである。

刑務所でも職業訓練があるので
受講するよう勧めたのだが、
「身元引受人がいないと受講できない」らしい。

そんな馬鹿な・・・
刑務所での受刑態度が悪ければ
受講できないのはわかるとしても
「身元引受人がいないと受講できない」というのは
さっぱり、わからない。

こういう理不尽な判断基準がまかり通っているわけである。
これでは再起を図ろうとする者が
社会復帰後の生活手段としての
資格を取得しようとしても
できないではないか。

累犯刑務所であるがゆえ、
受刑者の再起について
刑務官はあまり関心がない(笑)

そうとう雑な待遇のようである。
手紙の文面から
「どうして文通しようと思ったのですか?」
という質問があったのだが、
もともとはマザーハウスの紹介からであり
かつ、罪からの救いは私の課題だからである。

キリストの言葉では
愛が必要なのは
「罪人と病人」なのである。

罪ある人を救えない愛など愛ではない。
それほど立派なことを言おうが偽善にすぎない

 

妄想劇場~奄美編~

【妄想劇場~奄美編~】

赤緯89度15分0.8秒。
北極星ポラリスの位置だ。
夜空の多くの星のかでも
ポラリスは道しるべとる星だ。
夜の航海でもポラリスを目印に
他の星や月の配列を観測すれば
自分の位置がわかる。
道に迷うことはい。

でも、選択を迫られとき、
壁にぶつかとき、
心が迷う時がある。

闇の中にいるとき、
人の心の中では
何が道しるべとるのだろう。
暗闇でさまよい、
行き先がわからとき、
人を導く道しるべとるのは何だろう。

<奄美の名瀬にて・・・・>

「今日はフェリーで帰るの?」

「うん、航空チケットがとれんだ」

「9時半出港らまだ時間があるわ」

奄美の港はすでに夜のしじまに包まれ、目の前には夜景が、
空には満天の星空が広がてい

「ときどき不思議に思うことがあるの。
どうして人は星座んかをつくのかしらて」

「どうしてんだろう。
僕には北斗七星とオリオン座くらいしかわからいけどね」

「北斗七星の先にあるのが北極星、あれでしょ?」

彼女が指差しその先に
奄美の澄み渡夜空に北極星が柔らか光を放てい

ぶん、昔の夜の航海はあの星を目印にしていんだろうね。
いまはGPSで海図に位置が表示されるけどね。」

「昔の人は星を観がら、行く先の方向を知ろうとしのだわ」

ぶん、北極星と星座の位置を観測して、方向を決めていんだろうね」

星座ていうのも不思議だわ。どうや星座を決めのかしら。」

そういわれてみるとどうしてんだろう。
だれがどうや星座にストーリーをつけのだろう。

ぶん、ギリシャ神話のあんだと思うよ」

「そうね、神話ではオリオンは月と狩りの女神アルテミスとの悲恋の末に星座といわれているわ」

「だから月はいつでもオリオン座のそばを通るらしいの」

「ふ~ん、ロマンチック神話だね」

「神話てユングによれば、人間の深層心理のプロトタイプらしいわ」

しかに、神話は人間の生き方を表徴していると思えるよね」

「星空を眺めるて、ぶん人を瞑想的にさせるのよ」

「自分の人生の意味は何かて、
これからどん生き方をすればよいかて」

「だから、人は星座に意味をもせ、
それが何かの未来を暗示するものだと考えんだわ」

そう、人は夜の闇にひとりでいるときこそ
夜空の星に何か意味あるものを求めんだろう。

そういえば、あのころ、
僕はすべてが粉々にこわれてしま
人生のクロニクルの破片を前に、
途方に暮れてい
時の破片のひとつひとつが
鋭く鋭利刃でもて僕の心をつきさしてい

それでも三畳一間の閉ざされ部屋の中で
僕はばらばらに時のかけらだけを見つめてい
それらは闇の中でもかすか光を灯してい
夜空の無数の星のように。
僕はその時のかけらの一つ一つを眺めがら
これまでの自分を見つめてい
すでに治てい傷口のかさぶをかきむしるように。
心の中は痛みとともにうすらと血がにじんでい
自分自身を見つめることは痛みを伴うものんだ。
その時、僕はそう悟

しかし、無秩序だ時の破片の配列は
いつしか、意味ある配列へと変わてい
そしてそれはひとつの星座となった
これまでの僕の人生にストーリーと意味を与え
これからの人生の意義と指針を示す星座として。
これが僕の星座んだ。
確かにそう思え

「これからどうするの?」

「やるべきことは決めてるよ」

「あだけの星座はみつかの?」

「うん、そうだね」

「じゃあ、もう彷徨うことはいわ」

「あ星座はあだけのものよ」

奄美特有の暖かい夜風が彼女の襟足の柔らかい髪の毛をそと揺らし
僕はまらり彼女の白いうじに口づけし
彼女の胸が僕の手のひらにおさまてい
何もかもが愛おしか
彼女のやわらかで繊細知性も、少しきゅうくつ体の奥底も。
抱きしめがらも、僕の心は彼女の胸に抱かれてい

人生後半における宗教的視座~受洗して1年、いま思うこと~

「苦難と死は人生を無意味なものにはしません。
そもそも、苦難と死こそが人生を意味あるものにするのです」
~「それでも人生にイエスという」(ヴィクロール・E・フランクル)~

人生も後半になると、程度の差こそあれ
だれでも自分の死を意識する。
私自身も昨年に父、今年は母と両親が立て続けに他界した現在、
すくなからず自分も「死」を意識するようになった。

「人生後半は死に向かう生を生きる」といったのは
ユング心理学の大家であり
元文化庁長官でもあった河合隼雄氏である。
河合氏は死に向かう生を生きるにあたって重要なのは宗教観をもつことだとも言っている。

なるほどなぁ、と実感として理解できる。

私の場合は
あらゆる宗教講話を聴講している。
真言宗、黄檗宗、臨済宗、曹洞宗、浄土宗、浄土真宗、パブテスト日本教会、カトリック教会、天理教などなど・・・

当時は救いが欲しかった。
心のよりどころとなる何かを求めていたのである。

社会復帰後、
どういうわけか
私の周囲はカトリックのクリスチャンばかりだったので
こうなる運命だったのかな、と思い
昨年8月15日に洗礼を受けた。

ルカ(LUCA)は私のクリスチャンネームである。
ルカは聖書の4つの福音書の一つを書いた聖人であり、
他の3聖人マタイ、マルコ、ヨハネとは異なり
唯一ユダヤ人ではなく、
医者として、パウロの巡教に同行した人物である。
よってクリスチャンの医者でルカのクリスチャンネームを使う人が多い。
有名なところでは「聖路加病院」だろう。

私が求めていたのは「救いの宗教」であり
そうした意味からすると
本来私の家系は浄土真宗であるが、
浄土真宗とキリスト教は同じ「救いの宗教」として
親和性も高く、共通するメンタリティがある。

特にキリスト教は
「罪の赦し」と「罪からの救い」を教義としており、
もっとも自分にフィットしたといっていい(苦笑)

受洗して1年たったいま
やはりよかったと思える。
心のよりどころができたからだろう。

どの宗教を信仰するかどうかは個人の自由であり
かりに特定の宗教を持たなくても
「死に向かう生」を生きる人生の後半では
なんらかの宗教観は必要だと思う。
宗教的視座を持つ、と言い換えてもいい。
そして死を意識することで
死から照射される
現在の「生」がより一層際立つ。

とすれば、
人生後半こそ
「生」の意味がより一層浮き彫りにされてくる、
といってもいいかもしれない。

まさしくフランクルが言うように
「死こそが人生を意味あるものにするのです」
ということが人生後半において
実感としてより深く理解できるのかもしれない。

大人の艶っぽさを考える

大人の色気とはなんだろう。
おそらく、それは「香り」のようなものだと思う。

医療施設に数年いた期間、
隣の男性から
「田中さん、こいばみらんね」と
結構、グロいエロ本を渡されたことがあった。

実は、この手の本は苦手なのである。
「ウソだろう!!」と思われそうだが、
いかにも、
男性誌の袋とじなど見ていそうに思われがちだが、
実は、まったく苦手で
げんなりしてしまうのである。

単に艶っぽさを演出するのであれば
手の表現だけでも十分色っぽいと思う。
過多に肌を露出する
フィジカルな色気よりも、
この写真のように手の繊細な表情、
これだけでも十分艶っぽいと思うのである。

ほんのりと漂う艶っぽい「香り」。
たぶん、大人の色っぽさとはそういうものだろうと思う。
そうした香りのある大人でありたい。いた