月: 2017年8月

  • NPO法人マザーハウス理事長五十嵐さん、「作田賞」受賞!

    元受刑者の社会復帰支援及び再犯防止活動を実践している
    NPO法人マザーハウス理事長、五十嵐さんが
    26日、作田賞を受賞されました。

    作田賞は、犯罪・非行の防止と
    犯罪者・非行少年の
    更生・矯正に尽力している個人、
    もしくは団体の中から、
    著しい貢献が認められた者に対して表彰し、
    その活動を称え、
    今後の活動の励みとするための賞です。

    昨年12月14日には、
    犯罪や非行をした人の立ち直りに向けた
    議員立法「再犯防止推進法案」が
    議会で可決成立をし、
    即日、施行されました。

    マザーハウスのお手伝いをさせていただいてますが、
    こうした活動が社会的に認められた意義は大きいと思います。

    再犯防止のためにも
    元受刑者の社会復帰を支援する、
    という国の考え方が法的にも整備され、
    これから、社会全般にそういう考え方が
    浸透されることが必要と思っており
    今回の五十嵐理事長の受賞は
    こうした流れを少しずつ大きくしていくための
    きっかけになるでしょう。

     

  • 洗礼を受けて変わったこと②~汝、思い煩うことなかれ~

    8月15日、聖母マリア被昇天の日に
    洗礼を受けて今日で10日になります。

    内面的な変化はいろいろありますが、
    一番大きいのは
    やはり、
    主イエス、聖母マリアから
    「護られてる」感が
    強くなったことでしょう。

    とはいえ、
    現実には心痛することが多く、
    全てにおいて、
    決して充足しているとは
    いえません。

    しかし、それでも
    メンタル面では
    「満ち足りている」感が強く、
    悩みはあっても
    「汝、思い煩うことなかれ」(聖書より)
    との聖書の言葉通り、
    「思い煩う」といったことは
    ほとんどなくなりました。

    そう考えると、
    外的な要因というのは
    幸福を構成する要件ではありますが、
    それらのすべての外的要件が
    そろわなくても
    幸福であることは
    十分可能であるといえるでしょう。

    これは自論ですが、
    「思い煩う」ということについて
    外的要因はあくまでトリガーに過ぎず、
    それによって誘発された
    自身の内的な思考と感情の起伏によって
    自身を苦しめてしまう、というのが
    苦悩の源泉であると考えています。

    一見、外的な要因に
    自身の苦悩の理由を
    すべて帰趨してしまいそうですが、
    実はそうではなく、
    おそらく、
    外的要因に誘発された
    自身の思考や感情が
    自身を苦しめている、
    というのが真相だと考えています。

    このように考えるのも
    実は私が1日誰とも話さない、
    という状況を
    6か月間過ごした経験に起因しており、
    この徹底した孤独な状況のなか、
    自己の内部に深く沈降していくという
    内的プロセスを経ることで、
    結果、自身を苦しめるのは
    自身の思考や感情の起伏であって、
    外的要因はトリガーに過ぎない、
    と考えるようになりました。

    このような考えを持っている自分にとって、
    洗礼後の「満ち足りている」感覚は
    様々なプロセスを経ての
    ひとつの到達点でもあり、
    かつ出発点でもあり、
    また、原罪を有する私にとって、
    クリスチャンという選択は
    必然でもあって、
    洗礼を受けたことにより、
    このような心境を得られたことへの
    感謝の念も高まりました。

    それゆえ、
    最近は素直に十字架を前にして
    感謝し、祈ることもできるようになりました。

    人生も後半に入ると
    程度の差こそあれ、
    身近な人の死を通して、
    自らの死を意識します。

    しかし、それゆえにこそ、
    より鮮明にこれからの生を
    意識するようにもなります。
    そのなかで、クリスチャンという選択は
    これから生きていく上で
    大きな支柱となっています。

  • 1日2食ダイエット&筋トレ、始めました!!

    昨年9月に佐賀に戻ってきたときの体重は58㎏。
    3年前の体重は80㎏だったので
    体重減に成功したものの、
    現在の体重は68㎏。

    この1年弱で10㎏太ってしまった・・・
    1年前は腹筋割れたのに・・
    ウェスト回りのぜい肉を絞らねば!!

    そこでダイエット&筋トレ始めました!!

    まずは、1日2食ダイエット。
    朝食は玄米食に冷奴と納豆。
    デザートに大豆ヨーグルトに
    はちみつとグラノーラを加えたもの。

    昼食は主に外食。
    夕食は抜き。
    できれば1日1食に近づけたい。

    筋トレは「自重筋トレ100の基本」を参考に
    家族が夕食中、
    腹筋、腕立て100回ずつ。
    朝は3時起床なので
    4時から1時間ほどウォーキング。

    う~ん・・・
    これで1年前の肉体に戻れるか???
    なんとかもとに戻したい!!

    *WEB解析士、田中卓哉

  • 誌的感性を考える。

    つながりとんぼはな、
    病気のトンボを引っ張っていくだわ
    お医者さんのところへ
    (4歳のこども)

    上の詩文は4歳の子どもの言葉を
    それを聞いた大人が雑誌に投稿したものである。

    決して、美文をてらったものではない。
    しかし、この詩文を読んだ人の多くは
    この4歳の子どもに誌的感性を感じるだろう。

    言葉は単にプリズムにしか過ぎない。
    言葉を輝やかせるのは
    あくまでその人の感性だ。
    人が見ているのは
    言葉を使う人の言葉の先にある、
    その人の感性である。

    感性の光が
    言葉というプリズムを通して
    言葉ははじめて虹色に輝くのである。

    言葉はその後ろにある
    大きな世界があってはじめて美しいものになる。

    同じひとつの言葉でも
    それを口にする人によって
    美しくもなり
    汚くもなる。

    そして人は
    その誌的感性を通して
    自分の周りの世界を
    また、新しい視点で見ることになる。

    何も変わらないような世界が
    ほんの少し動的に変化する。

    何も変わらないように
    見えていた世界が
    誌的感性を通して
    新たな表情を見せるのである。

    誌的感性。
    それを持ち続けることが
    常に世界を新鮮に
    感じ、思えることの
    秘訣なんだろう。

  • 洗礼を受けて変わったこと~小さな奇跡~

    8月15日、聖母マリアの被昇天の日に
    佐賀カトリック教会で
    神父さんから洗礼を受けて
    もうすぐ1週間になります。

    洗礼を受けるとこれまでの罪は
    神のもとで赦され、
    新たな命を授かり、
    神の子となります。

    それで何が変わったか???
    あまり大きく変わることはありませんが
    先日、不思議なことがありました。

    いつも右手の小指に
    メダイとクロスがついた
    リングをはめていますが、
    そのメダイがリングから消えており、
    つまりリングから外れて
    どこかに落ちたのでしょう。
    周囲を見渡してもありません。

    さすがに焦りました。
    そのメダイは聖母マリアが描かれている
    「奇跡のメダイ」といわれている
    フランスからの輸入品だったのです。

    これが、路上に落としているのであれば
    見つけ出すのは容易ではありません。
    ところが、ふと、自分の腕をみると
    なんと、
    自分の汗ばんだ腕に
    メダイが張り付いていたのです。

    リングからはずれて落ちてしまったのですが
    私の腕に張り付いていたのです。
    まるで、聖母マリアから
    「あなたの身近にいつもいますよ」
    といわているように。

    このときから、
    「自分は聖母マリアから
    イエスから護られている」感が
    強くなりました。

    しかし、現実には心痛することが多く
    昨年10月から再スタートした
    WEB解析士のコンサルタント事業も
    経営的には
    クライアントは増えてはいるものの
    決して「楽」というわけではありません。

    それでも、
    心は「護られている」感が強く、
    それゆえ、精神的には
    「満たされている」感が強いのです。

    おそらく、これが信仰につながるのでしょう。
    洗礼を受けてよかった、と思っております。

    そのお返しに何をやっていくか。
    宗教的にはこれからの自分のテーマは
    「罪の赦し」と「罪からの救い」です。
    その一環として
    これから、
    元受刑者の社会復帰支援に取り組んでいきます。

  • 夏の恋歌~ひまわり~

    満面の
    笑顔をみせる ひまわりと
    白いTシャツ ぼくを呼ぶ声

  • 「過ちは 繰返しませぬから」の碑文を考える

    この時期になると、
    ついつい考えてしまう
    広島平和記念公園内に設置されている慰霊碑に
    刻まれている碑文、
    そこにはこう書かれている。

    「安らかに眠って下さい 過ちは 繰返しませぬから」

    この碑文について
    「『過ち』は誰が犯したものであるか」ということは、
    建立以前から議論があったらしい。

    1952年8月2日、広島議会において
    浜井市長は
    「原爆慰霊碑文の『過ち』とは
    戦争という人類の破滅と
    文明の破壊を意味している」と答弁したそうだ。

    日本語は主語がない場合が多い。
    たとえば、川端康成の名作「雪国」の冒頭文。

    「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。」

    この文章には主語がない。
    海外ではこの文章をどう訳すのだろうかと不思議に思う。
    英語などをみても、主語と述語はセットである。
    しかし日本語は主語がないことで
    「誰が」「どうした」ということより
    「どういう状態か」ということが重要となる。

    そのことを考えると、
    広島平和記念公園内の碑文については
    「誰が」過ちを犯したか、
    ということより、
    原爆が投下された「状態」が過ちなのである
    と理解した方が適切ではないだろうか。

    もし、これが
    民間人の大量殺傷したアメリカの過ち
    とした場合、この碑文は
    日本がアメリカの過ちを訴える内容となり、
    原爆の非人間性を世界共通の問題として
    浮揚させることはできなくなる。

    どこかの某国のように
    延々とアメリカの戦争犯罪を訴える碑文となる。

    しかし、それでは、
    原爆を世界共通の問題として
    多くの人の共感をえることはできないのではないだろうか。

    日本とアメリカの関係を超えて
    原爆そのものの「過ち」を訴えることで
    初めて、世界の人々の理解と共感を
    得るのことができたのではないか。

    そう考えると
    この碑文は日本語の特質を活かした
    日本人の知恵ある碑文として
    誇りにしていいと思う。

  • 聖書を読む①

    先日、小城市に住む実業家Aさんと話した時のこと。
    Aさんは決してクリスチャンではないが、
    有神論者ではある。

    「田中さん、聖書って面白いですよね。」

    「まあ、私は文庫版を持ち歩いて時折読んでますが」

    「キリストが十字架にあるとき、
    左右にそれぞれ1人ずつ、
    磔にされた罪人がいたでしょう。」

    「そうですね」

    「そのうち一人はキリストに罵声を浴びせ、
    もう一人はキリストとともにいることを望みましたよね」

    「・・・・」

    「不思議ですよね。
    キリストとともにあって、一人はキリストを侮辱し
    もう一人はキリストと共にあることを望んだわけですから」

    Aさんが言わんとすることはおそらくこうだ。
    ある事象があり、あるいはある人物とともにあって
    その際に人が取り得る態度は自由ではあるものの
    対極的な2つの態度が想定される。

    一つは否定的な態度。
    もう一つは受け入れるという態度。

    しかし、おそらく
    キリストを受け入れ、
    キリストと共にあることを望んだ罪人は
    キリストが
    「あなたはわたしとともに今日、一緒に楽園にいる」
    と語ったように、罪から救われ、
    神の国に引き上げられただろう。

    アウシュビッツ強制収容所から生還し、
    後に「夜と霧」を著述した精神科医
    ビクトル・E・フランクルは
    どのような状況下においても
    人は価値ある生を生きることができる、
    と主張した。

    そのうちの一つに
    「態度価値」を挙げている。

    どれほど絶望的状況下にあっても
    死の間際にあっても、
    その状況にどのような態度をとるか、
    そこにも生きることの価値はあるというのだ。
    それをフランクルは「態度価値」と呼んだ。

    聖書は世界的ベストセラーだ。
    クリスチャンでなくとも、
    その内容はなにかしら
    心の琴線にふれる箇所がある。

    かつて、太宰治も芥川龍之介も
    聖書には深く傾倒していった。

    聖書は多様な読み方がある。
    それぞれの読み方は自由であり、
    それでも読む人の心に響くものがある。
    だからこそ、
    聖書はクリスチャンであるなしを問わず、
    多くの人に読まれるのであろう。

  • 高校野球大会歌「栄冠は君に輝く」の作詞、加賀大介さんのこと

    この時期、地元の声援を受けて出場する
    高校球児の活躍が楽しみのひとつになる。
    高校野球でどうしても思い出すのが
    大会歌「栄冠は君に輝く」の作詞家、加賀大介さんのことだ。

    高校野球大会歌は1948年、朝日新聞社の大会歌詞募集で
    加賀さんは後に妻となる中村道子さんの名を借りて
    応募し、見事、5,252篇中の1位となった。

    賞金は当時の金額で5万円、
    当時の公務員給与の10倍以上だったらしい。

    加賀さんはもともと野球少年で
    16歳の時、練習中足を怪我し、
    その怪我が悪化し、右足を切断した。

    野球の夢は断たれ、
    その後、加賀さんは詩作にふけるようになり、
    プロの文筆家となった。

    そうした中、
    朝日新聞社の大会歌詞募集を知り、
    後に妻となる中村道子さんの名で応募、
    見事、「栄冠」を勝ち取ったのである。

    加賀さんは
    自分の作詞であることを伏せていたのだが、
    1968年に真相を明かし、
    その後は「加賀大介作詞・古関裕而作曲」と
    表記されるようになった。

    加賀さんは甲子園で
    高校野球を見ることを夢見ていたが
    その夢を果たすことなく、他界した。

    野球少年であった加賀さんは
    足を切断した時に
    夢を断たれた。

    しかし、詩作に耽け、
    高校野球の大会歌を作詞することで
    加賀さんは高校野球に永遠に名を残すことになった。

    加賀さんの野球への情熱は
    高校野球への夢は
    別の形で実現したのである。

    人生は決して直線的に進まない。
    流れがよどめば、
    別の道を見出し、
    新たな流れをつくりだす。
    そして宇宙は必ず新たな接点を見つけ出すのだ。