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  • 小野小町のモテ度に関する一考察

    世界の三大美女といえば
    日本では
    クレオパトラ、楊貴妃、
    そして小野小町である。
    平安時代、9世紀末の女流歌人であり、
    伝承によると現在の秋田県湯沢市の出身らしいが
    正確なことはわかっていない。

    小野小町がどれほど美人だったかわからないが
    モテまくったそうである。

    しかし、写真もなく、
    逢瀬を重ねるほどの機会も少ないであろう時代に
    小野小町がモテた理由は
    単に見た目だけではなく、
    彼女の繊細な文章表現、
    歌のうまさにあると思う。
    そこに多くの男性は惹きつけられたのだろう。

    小野小町の有名な歌は多い。
    「思ひつつ 寝ればや人の 見えつらむ
     夢と知りせば 覚めざらましを」
    こんな恋歌を贈られたら完全にノックダウンである。

    この歌も切なく、いろっぽい
    「いとせめて 恋しき時は むばたまの
     夜の衣を かへしてぞきる」

    誰もが知る歌ではこれだろう。
    「花の色は 移りにけりな いたづらに
     我が身世にふる ながめせし間に」

    小野小町のモテ方はこうした
    フェミニンな香りが漂う文章の色っぽさ
    心のひだに触れてくる繊細な文章表現にある。

    メンタルな色っぽさ。
    女性の色っぽさの神髄はこうしたメンタルな
    繊細でフェミニンな香りのなかにあるんだと思う。

    ちなみに私は文章フェチで(笑)
    小学生のころから今でも
    作詞家である 阿木燿子さんのファンである。

  • 実は・・・実話⑥-9

    1つの事件での逮捕による拘留期間は20日間である。
    その期間が過ぎて、さらに逮捕されると
    (このことを再逮という)
    さらに20日間拘留される。
    A君は嬉野の事件で逮捕され、
    さらに久留米の事件で再逮された。
    つまりA君は40日間拘留され、
    連日、法定の上限である8時間の取り調べを連日受けた。
    取り調べ担当者は暴力団専門の刑事である。

    A君は組長であるMとは1回しかあっていなかった。
    刑事はA君を追い詰めていった。
    「Mは生徒が来なかったらどうすっとや?と聞いてきたやろ?」
    「生徒が来ない場合のリスクを聞いてきたやろ?」

    刑事はどうしてもA君から
    Mが生徒が来なかった場合の対応を聞いてきた、
    という供述をとりたかったのだ。

    しかし、そもそもA君がMとあったその日は
    嬉野と久留米で教室を開校しようということしか決まっていなかった。

    この段階でのリスクとは
    生徒が集まらない場合のリスクであり、
    生徒が出席しない場合のリスクは考えない。
    そもそも刑事の言うリスクの意味が的外れなのである。

    A君は懸命に説明した。
    「いや、刑事さん
    ここでいうリスクは生徒が来ない場合のリスクです。
    この段階で生徒が出席しないことなど考えられない」
    なにしろ生徒にとっては受講するだけで生活給付金が得られるのである。
    この段階で欠席など考えられなかった。
    いくら説明しても刑事は理解しない。
    というより、
    Mが生徒が欠席した場合の対応を聞いてきたことにしなければ
    Mを有罪にもちこめなかったのである。

    刑事はさらにA君を追い詰めた。

    「Aさん、一番悪いのはMやろ?
    一緒にあいつをやっつようや」

    刑事はさらにとどめのセリフを吐いた。

    「Aさん、思い出せんやったら
    絞りだしてでも出せ!」

    A君はこの刑事のセリフを
    「Mを有罪に持ち込む供述を嘘でもいいからしろ」
    という意味にとらえた。
    A君は逡巡した。

    「刑事さん、少し考えさせてください」
    A君は昼食時間をとる間、考え込んだ。

    ヤクザが無罪になるのはおかしい。
    誰も供述しないのなら、
    自分が差し違えても
    Mを有罪に持ち込むべきだ。

    A君は連日の取り調べで
    ほとんど洗脳状態になっていた。
    そしてA君は午後の取り調べで
    このように供述した。

    「Mが生徒が出席しない場合の対応を聞いてきたので
    私は、出欠をごまかすこともできますよ、と答えました」

    その日、警察の取調室に早速、検事がやってきた。
    つまり、「しめた!」と思ったのである。
    そして検事もその供述書を作成し
    A君はそれに署名した。

    まあ、こうやって冤罪はつくられていくんですね
    なにしろ刑事自身もいってますから
    「供述書はおまえの言う通りには書かない」と(笑)

    A君はとうとう警察と検察のシナリオに
    そった供述をすることに心は折れてしまった。
    しかし、その後も
    A君は嘘の供述したことについて
    悩み続けることになる。

  • 地元名物の食べ物に関する一考察

    仕事で各地に出張する機会が増えました。
    その際、必ず地元名産を食するようにしています。
    地元に古くからある名物料理には必ずその土地の生活文化があります。

    まず、静岡名物の「静岡おでん」
    静岡おでんはだし汁が黒く、
    中には静岡おでんしかない
    黒はんぺんが入っています。

    黒はんぺんはイワシを材料としていますが
    「なるほどなあ」と思いました。
    おそらく駿河湾近海で獲れる魚介類のなかでも
    イワシは商品価値が低かったのでしょう。
    それではんぺんにして
    おでんの材料として商品価値を高めたのでしょう。

    ところが、それで出汁をとると
    思いのほか、おいしかった、というのが
    静岡おでんの始まりではないかと思います。

    またおでんですから長持ちする、
    さらに、そこに野菜類も加えて
    栄養バランスをとる、というのが
    地元の人たちの知恵だったのではないでしょうか。
    ですから静岡おでんは冬だけではなく
    1年中あるんでしょうね。

    次に奄美。
    奄美の名物、塩豚の煮物。
    塩豚は保存食ですね。
    そこに野菜も加えて煮ることで
    栄養バランスをとる、ということでしょう。
    また黒糖で煮ることで角煮にする、
    というレシピも地元ならではです。

    こうしてみると
    地元の名物料理というのは
    食材の長期保存の狙いと
    栄養バランスを考える、という
    2つの視点からレシピがなりたっている、
    と考えてもいいでしょう。

    ただし
    私自身の日常は
    チョー粗食派です(笑)
    雑穀入りの玄米ごはんに
    ちょっとしたおかず、
    デザートとして
    刻んだリンゴに豆乳ヨーグルトをかけて
    その上に蜂蜜を垂らしたもの、
    これが主食ですね。
    しかも夕食は食べない1日2食派。
    しかし、粗食派の人ならわかるでしょうが
    粗食していると必然的に薄味に慣れ、
    そのことで味覚が敏感になります。

  • 実は・・・実話⑥-8

    A君の取り調べを担当した刑事は
    博多署の組織暴力対策課の選りすぐりのチーム
    暴力団犯罪捜査課の現場を事実上指揮するG係長だった。

    取り調べ当日、刑事はA君にこういった
    「おまえの言う通りには書かんからな」
    つまり供述書はA君の供述通りには書かない、ということである。

    A君への取り調べは熾烈を極めた。
    法的に決められた取り調べ時間は1日上限8時間。
    その上限8時間を連日にわたって執拗に続けられた。

    午前中3時間、午後3時間、
    そして就寝9時以降にたたき起こされ
    10時から12時までと、断続的にやらされるのである。
    精神面でくたくたになる。

    A君は当初否認した。
    A君にそもそも詐欺の認識はなかったのである。
    確かに出欠をごまかしたものの
    A君自身にメリットがあったわけではなく、
    図利目的はなかったからである。
    しかし、出欠をごまかしたのは事実であるため
    その点については認めた。

    しかし、刑事の目的は
    暴力団組長であるMの起訴、
    有罪へもちこむことであった。

    共犯者は生徒含め40人。
    その誰もがM組長への供述は避けていた。
    教室責任者である久留米教室のHも
    嬉野校教室のXもM組長に関する供述は一切しなかった。
    それどころか久留米教室のHは
    「Aの指示による詐欺行為」と供述したらしい。

    A君は精神的に追い詰められていた。
    刑事はさらにA君を追い詰めた。
    「Aさん、HもXもM組長のことはなんにもいわんぞ
    あんたの指示によるものだと供述しているぞ」

    A君はM組長とは嬉野市に住むY君の紹介で
    「地元の有力者」として紹介されており、
    実際にMが暴力団組長とは知らなかった。
    しかも久留米市のファミリーレストランで
    1回しかあっていないのである。
    そのファミリーレストランでは
    「久留米と嬉野で開校しよう」ということしか決まっていなかった。
    そこで「出欠をごまかそう」という話はなかったのである。

    A君はそういう事情を正直に話したものの、
    刑事もまた、他の共犯者から供述がないため
    A君からの供述に頼るしかなかったのである。
    つまり刑事のシナリオはこうだ。
    A君とM組長が久留米のファミリーレストランで
    生徒の出欠をごまかして詐欺を共謀した、というものである。

    仮にそうだとすれば、その後A君が久留米の教室責任者に送ったメール
    「遅刻は大目に見るが、欠席を出欠にするのは糊塗できない」と矛盾する。

    しかし、刑事は何とかして
    A君とM組長の共謀事実の供述をとり
    M組長を起訴有罪にもちこみたかった。

    刑事の同じ質問を延々と繰り返した。
    「Mはいったやろ?
    生徒がこなかった場合、どうすっとや?と」

    1日8時間延々と同じ質問が繰り返された。

    To be continued・・・・・

  • 私の読書遍歴:「息子が人を殺しました」(阿部恭子著)

    著者は加害者家族支援活動を行っている阿部恭子さん。
    彼女の近著「息子が人を殺しました」は現在、読んでいるところだが、加害者家族の問題をクローズアップできたのは阿部さんの活動に負うところが大きい。
    加害者家族支援の初動活動はマスコミバッシング、世間からの批判からの保護だろう。

    犯罪者を生んだ家庭ということで、正確な事実検証もなく、好奇心と憶測による「悪意のある噂話」の延長線上にある批判、「犯罪の原因は家庭環境にある」という批判に加害者家族はさらされる。

    また、加害者家族もまた、身内が罪を犯したことに対する世間への負い目と自責の念に駆られ、死への誘惑にかられることもあるそうだ。
    加害者家族の支援とはそうした崩壊の危機にある家族のメンタルな支援も含まれるそうだが、そうしたメンタルな支援活動を行っていく過程で、身内が犯罪にいたってしまったその原因がこれまでの家族の日常に小さく巣食っていた「闇」、「小さなブラックホール」がいつしか犯罪という大きな闇につながってしまった、ということに家族が気づかされることもある。

    どこの家庭にでもあるような小さな闇、ちょっとした傷、それが心を蝕み、いつしか大きな闇となる、あるいはその小さなブラックホールが全く別の大きな闇に吸い込まれてしまう、というのが犯罪にいたるプロセスのように見える。

    阿部さんもおそらくそのように実感しているであろう。
    それゆえ、犯罪者、加害者は一般の人からかけ離れたモンスターのような人間ではなく、いたって普通に日常を暮らしている人が、心の小さなブラックホールから、何かの拍子にするっと別の闇の領域に紛れ込んでしまった、というのが実態ではないだろうか。

    そうであれば、元受刑者の社会復帰についても自身で心の病んでいる部分、傷んでいる部分の修復がまずは最初の一歩であろう。
    自身の心の内を見つめ、病んでいる部分、傷んでいる部分を治癒し、回復し、そこから新たな方向に向かって進んでいく、というのが元受刑者の社会復帰の起点であろう。

    そして、その「小さな闇」に気づくことが家族の回復への第一歩であり、それは何も加害者家族に限らず、「普通の」一般家庭にもいえることでもある。

  • 実は・・・実話⑥-7

    A君は詐欺の容疑で逮捕された。
    佐賀バルーンフェスティバル開催の前日であった。
    翌日の新聞報道では、
    久留米暴力団の二次団体組長の名前Mと
    教室責任者2名及び生徒、
    そしてA君の名前が掲載された。

    暴力団が国の助成金目当てに
    詐欺をしたことで全国ニュースとなった。

    久留米の教室責任者のHはその組員であった。
    嬉野教室の責任者はすでに組員ではなかっただ
    かつて別の組の所属していた人物であった。
    そしてその後明らかになったことだが
    久留米、嬉野のそれぞれの教室責任者は
    生徒募集の際、
    「出欠をごまかしてやるから
    名前だけでも応募しとかんね。」
    といって誘っていたのである。

    A君はそういう背景を全く知らなかった。
    そもそも暴力団組長Mにあったのも
    嬉野に住む知人Y君から
    「久留米の地元有力者が
    開校したいっている」といわれて会ったのである。

    まあ、確かに地元の「有力者」ではある。
    対立する組織があるとはいえ
    地元最強の暴力団であるからだ。

    逮捕されたA君、
    その取り調べに当たったのは
    特別組織暴力捜査班の係長だった。
    通称「トクボウ」
    組織暴力のチームの中でも選りすぐりのチームであり、
    そのなかでも現場では
    最も力のある係長である。

    A君の地獄の取り調べが始まった。

    To be continued・・・・

  • 私の読書遍歴:スティル・ライフ(池澤夏樹著)

    池澤夏樹氏の芥川賞受賞作である。
    静寂さと透明感に満ち溢れた青春小説。
    私の大好きな小説のひとつ、です。

    「外の世界と、
    きみの中にある広い世界との間に
    連絡をつけること、
    一歩の距離を置いて並び立つ
    二つの世界の呼応と調和を図ることだ。」

    人は世界との調和を望む。
    しかし、現実は必ずしもそうではない。
    自分と世界との間には微妙なずれがあり、
    だからこそ、そこに動的な関係が生まれる。
    それがポジティブなものであればいいが、
    ネガティブに作用すると
    世界も自分も傷つける。

    この小説は自分の世界と
    外の世界との間で
    静かに、調和していくことを
    望みながら、
    日常を生きる青年の物語でもある。

    詩的な文章がつづられていく。
    圧巻は雪の描写だ。

    「音もなく限りなく降ってくる雪をみているうちに、
    雪が降ってくるのではないことに気付いた。
    その知覚は一瞬にしてぼくの意識を捉えた。
    目の前で何かが輝いたように、ぼくははっとした。
    雪が降るのではない。雪片に満たされた宇宙を、
    ぼくを乗せたこの世界の方が上へ上へと昇っているのだ。
    静かに、なめらかに、着実に、世界は上昇を続けていた。
    ぼくはその世界の真中に置かれた岩に坐っていた。
    岩が昇り、海の全部が、膨大な量の水のすべてが、
    波一つ立てずに昇り、それを見るぼくが昇っている。
    雪はその限りない上昇の指標でしかなかった。

    どれだけの距離を昇ればどんなところに行き着くのか、
    雪が空気中にあふれているかぎり昇り続けられるのか、
    軽い雪の一片ずつに世界を静かに引き上げる機能があるのか、
    半ば岩になったぼくにはわからなかった。
    ただ、ゆっくりと、ひたひたと、世界は昇っていった。
    海は少しでも昇ればそれだけ多くの雪片を溶かし込めると信じて、
    上へ上へと背伸びをしていた。」

    これほど美しい雪の描写はないだろう。
    そしてこの雪の描写は
    自らの心象風景の描写でもある。

    だからこそ、この一文は読む者の心に残る。

  • 仏教の経典とキリスト教の聖書との違いに関する一考察

    「法華経」「般若経」
    仏教の経典で出てくる「経」という言葉。
    これはサンスクリット語では「スートラ」という
    もともとは線(いとすじ」のことをいうそうです。
    元来スートラといわれたものは
    ちょうど一本の糸にいろいろ美しい花を通して
    花環つくって首にかけていたように
    花にたとえられる大切な短い文句を
    いくつもならべたものをスートラといったそうです。

    ですからスートラの元来の意味は
    散文の短い要法を集めたものです。
    それを中国では「経」あるいは「経典」と訳しました。
    ですから「経典」というのはもともと散文からできているわけです。

    様々な「経典」を読むとわかるのですが、
    どこから読んでもそこには仏教の知恵が示されており、
    やはり散文を集めたもの、という印象を持ちます。

    それに比べると、
    キリスト教の聖書、特に「新約聖書」のなかの
    4つの福音書(マルコ、マタイ、ルカ、ヨハネ)については
    キリストの生涯を物語にしたストーリー性を帯びた形式になってます。
    そこに示されているのはやはりキリストの圧倒的な存在感でしょう。
    まるで、今でも生きているかのような実在感をもって
    物語の中に息づいてます。
    ですからクリスチャンの人の多くは
    やはり聖書の中のキリストを信じた、
    ということでしょう。

    乱暴に言ってしまえば、
    仏教の経典は散文のなかで
    生きていく上での知恵が示され、
    聖書ではキリストの生涯の物語を通して
    神に通じる「罪からの救い」「罪の赦し」
    「愛の実践」が示されている、
    といったところでしょうか。

    仏教でも親鸞の浄土真宗も「救いの宗教」ですから
    そういった意味では浄土真宗とキリスト教では親和性は高いですね。

    いずれにしても人生も後半に入ると
    宗教的視座をもつことは重要だと思います。
    私の場合、某医療施設で
    多くの宗教講話を聴く機会をもつことができ、
    宗教に対する知見を持ち合わせることができたことは
    今思えば、有意義だったと思います。

  • 実は・・・実話⑥-6

    出欠のごまかしはA君主導で組織的に行われた。
    それでA君自身は何も得るものはなく、
    結局、実刑判決を受けてしまうのだが、
    つまり、出欠のごまかしが必要なのは
    生徒が生活給付金を得るためであり、
    出席率8割以上という要件を満たすためだったのである。

    本来、生徒の出欠管理は教室責任者の業務であり、
    A君がかかわることもなかったのだが、
    講師の講義録や生徒の受講感想などの各種書類の整合性を保つためにはA君の協力なしにはできなかった。

    そうした出欠のごまかしが日常化する中で、
    嬉野校の教室運営に疑問を持った
    国の監察が抜き打ちで行われた。

    何しろ、嬉野校は1階に位置していたため
    教師の内部は外から丸見えだったのである。
    出席率は全員8割以上との報告に対して
    外から見れば、
    教室内部は5~7人しかいないという状況。
    書類はごまかせても、実態はごまかしようがない。
    A君はつくづく教室責任者Yの間抜けさかげんを恨んだ。

    教室閉校後、2年後にA君は詐欺容疑で逮捕された。
    佐賀市内であるバルーン大会開催日の前日であった。

    そして、逮捕された刑事からA君は驚くべき事実を聞かされる。
    「Aさん、久留米のMという男は〇〇会(久留米を本拠地とする暴力団)の二次団体の組長ですよ」
    A君自身は嬉野に住む知人から「久留米の地元の有力者」として紹介されていたため、そういう事実は全く知らなかった。
    そして、やくざがらみの事件であることが、さらに事を複雑にしていったのである。

    A君の受難はここからさらに深刻化する。

    to be continued・・・・

  • 私の読書遍歴:深読み古事記(戸矢学著)

    神道の専門家、戸矢氏の著作。
    いつもながら戸矢氏の博覧強記ぶりには舌を巻く。
    古今東西の文学、神話に精通し、
    古事記がもつ意味を
    様々な角度から読み取っていく。

    古事記を通して文学、生活、
    歴史、神話にいたるまで
    その底流を流れる私たちの生活文化
    精神構造を「深読み」していく。

    トリビア的「へえ×3」満載である。
    知的好奇心を十分満たしてくれる。

    たとえば、
    「むすめ」「むすこ」それと「おむすび」が
    同じ語源からつくられていることなど初めて知った。

    こうした身近な事例を通して明らかにされること、
    それは私たちの日常の生活の中にも
    古くからある神話的思想、
    そこから生まれてきた文化的コードが
    いたるところに仕組まれていることである。
    それは、私たちの日常から文学、
    または様々な建造物に至るまで
    意識的、無意識的に作用している。

    私たちの生活は
    このような文化的コードが
    底流にあってこそ成立する。
    それがなければ混とんとした社会になるだろう。

    つまり、この「深読み古事記」における
    戸矢氏の思考は
    日本人の生活文化、精神構造の根底にある
    文化的コードを古事記を通して
    「深読み」することにあるだろう。

    最良の教養書というにふさわしい。