「法華経」「般若経」
仏教の経典で出てくる「経」という言葉。
これはサンスクリット語では「スートラ」という
もともとは線(いとすじ」のことをいうそうです。
元来スートラといわれたものは
ちょうど一本の糸にいろいろ美しい花を通して
花環つくって首にかけていたように
花にたとえられる大切な短い文句を
いくつもならべたものをスートラといったそうです。

ですからスートラの元来の意味は
散文の短い要法を集めたものです。
それを中国では「経」あるいは「経典」と訳しました。
ですから「経典」というのはもともと散文からできているわけです。

様々な「経典」を読むとわかるのですが、
どこから読んでもそこには仏教の知恵が示されており、
やはり散文を集めたもの、という印象を持ちます。

それに比べると、
キリスト教の聖書、特に「新約聖書」のなかの
4つの福音書(マルコ、マタイ、ルカ、ヨハネ)については
キリストの生涯を物語にしたストーリー性を帯びた形式になってます。
そこに示されているのはやはりキリストの圧倒的な存在感でしょう。
まるで、今でも生きているかのような実在感をもって
物語の中に息づいてます。
ですからクリスチャンの人の多くは
やはり聖書の中のキリストを信じた、
ということでしょう。

乱暴に言ってしまえば、
仏教の経典は散文のなかで
生きていく上での知恵が示され、
聖書ではキリストの生涯の物語を通して
神に通じる「罪からの救い」「罪の赦し」
「愛の実践」が示されている、
といったところでしょうか。

仏教でも親鸞の浄土真宗も「救いの宗教」ですから
そういった意味では浄土真宗とキリスト教では親和性は高いですね。

いずれにしても人生も後半に入ると
宗教的視座をもつことは重要だと思います。
私の場合、某医療施設で
多くの宗教講話を聴く機会をもつことができ、
宗教に対する知見を持ち合わせることができたことは
今思えば、有意義だったと思います。

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