思考する自由

コロナの影響で外出する機会も減少したかもしれない。
仕事で他県に行くことはあっても、「不要不急の外出を控えよう」といわれては、やはり外出する気分は減退する。
しかし、家の中にあっても「思考する自由」は残される。
幸いにして、いまはインターネットで、思考する広がりは格段に広がった。

思考の自由、言葉、感性の広がり・・・

行動は制限されても、思考の広がりは制限されない。

インターネット上で思考の自由は広がる。

言葉、音楽、映像・・・・

「上質の普通」をつくり続けたい。








フランクルの命題「人生の意味を問うてはならない。 人生に 問われているのは我々である。」を考える

「そもそも
我々が人生の意味を
問うてはいけません。
我々は人生に
問われている立場であり
我々が人生の答えを
出さなければならないのです。」
ヴィクトール・フランクル。
アウシュビッツから生還した精神科医。
彼の著作「夜と霧」は生と死、人生への深い思索に満ち溢れている。

フランクルはアウシュビッツで家族を失った。
彼のみが生還し、その後、アウシュビッツでの経験をもとに、「夜と霧」を書き記した。

死が日常的にあるアウシュビッツでの生活は孤独と絶望の極限であったろう。
だが、フランクルはそれでも意味があると説く。

だれにでも不幸なことは起こりうる。
そして人は運命に、人生に、神に、
こう問いかける。
「なぜ?どうして?」と。
だが、だれも、何も答えない。

問いかけているのは人生であり、
問われているのは私たち自身である、
とフランクルは言う。

しかし、これは救いではないだろうか?
起きた事実はかえようがない。
しかし、起きた事実をどのように解釈していくか、
私たち自身にはその自由が残されている。

起きた事実にどのような意味があるのか、
それに意味を見い出す自由が私たちには残されているのだ。

おそらく、
不幸なことを
不幸なこととして解釈していることが
最も不幸なことだろう。

不幸な出来事にも
意味があり、
その意味をどのように解釈するかで
不幸な出来事が「意味ある出来事」に変容した時、
不幸な出来事はそうではなくなる。

フランクルの命題は「救い」である。
どのような「不幸な出来事」であっても
私たちはそこに「意味」を見い出し、
解釈する自由が残されているからだ。