フランクルの命題「人生の意味を問うてはならない。 人生に 問われているのは我々である。」を考える

「そもそも
我々が人生の意味を
問うてはいけません。
我々は人生に
問われている立場であり
我々が人生の答えを
出さなければならないのです。」
ヴィクトール・フランクル。
アウシュビッツから生還した精神科医。
彼の著作「夜と霧」は生と死、人生への深い思索に満ち溢れている。

フランクルはアウシュビッツで家族を失った。
彼のみが生還し、その後、アウシュビッツでの経験をもとに、「夜と霧」を書き記した。

死が日常的にあるアウシュビッツでの生活は孤独と絶望の極限であったろう。
だが、フランクルはそれでも意味があると説く。

だれにでも不幸なことは起こりうる。
そして人は運命に、人生に、神に、
こう問いかける。
「なぜ?どうして?」と。
だが、だれも、何も答えない。

問いかけているのは人生であり、
問われているのは私たち自身である、
とフランクルは言う。

しかし、これは救いではないだろうか?
起きた事実はかえようがない。
しかし、起きた事実をどのように解釈していくか、
私たち自身にはその自由が残されている。

起きた事実にどのような意味があるのか、
それに意味を見い出す自由が私たちには残されているのだ。

おそらく、
不幸なことを
不幸なこととして解釈していることが
最も不幸なことだろう。

不幸な出来事にも
意味があり、
その意味をどのように解釈するかで
不幸な出来事が「意味ある出来事」に変容した時、
不幸な出来事はそうではなくなる。

フランクルの命題は「救い」である。
どのような「不幸な出来事」であっても
私たちはそこに「意味」を見い出し、
解釈する自由が残されているからだ。

エロティシズムを考える

長谷川京子さんの写真集「Just as a flower」を買った。
女優の写真集を買うことなどなかったのだが、カメラマンが沢渡朔氏であったことから、「絶対買いたい!」と思って購入した。

思った通り!!
40代の長谷川さんの女性美と沢渡朔氏の感性がうまくかみ合ったフェミニンな香りとほのかなエロティシズムが漂う最高の写真集になっている。

女性美を損なうことなく、エロティシズムも感じさせる映像をつくりだせるのは沢渡朔氏が最高といってもいいと思う。

小説でいうと谷崎潤一郎。

上質なエロティシズムというのはかなり難しい。男目線でのエロティシズムはえてして、下品になってしまうからだ。
男目線の獣性を感じさせてしまっては女性美が損なわれる。

だから、女性美を尊重するという気持ちがベースにあることが必須である。

そのうえで性愛のウェットさ、プライベートであることの隠微さ。
それらがうまく組み合わされることで、最高のエロティシズムが生み出される。

長谷川京子さんと沢渡朔氏コラボは長谷川さんの女性美を最高度に引き出しながらほのかなエロティシズムを感じさせる素晴らしい写真集になっている。


宗教の現代的意義を考える

久しぶりに教会のミサに参加。
コロナの影響もあり、外出自粛期間中は、ミサも中止されていた。
自分は諸事情もあり、カトリックの洗礼を受けたが、臨済宗、曹洞宗、黄檗宗、真言宗、浄土宗、浄土真宗、天理教、パブテスト、キリスト教団、とあらゆる宗教の説法を聴いている。

キリスト教以外で特に影響を受けたのは禅宗(曹洞宗、臨済宗、黄檗宗)と天理教である。

信仰とはどこか思考がワープすることだと思う。
合理的思考を飛び越え、一気に飛躍し、ワープしていく心的過程のように思う。

しかし、そこに「心の救い」もあるように思える。

一人で考えてもどうしようもない時、自分ではどうしようもない壁にぶつかったとき、「ともかく神を信じるから」となんの合理性も、脈絡もなく、思考をワープさせていく(笑)。

でもそのような無茶な思考プロセスで、その人の心が救われるとしたら、やはり、それは信仰の力といってもいい。

おそらく近代的思考はこのような思考の飛躍や非合理性を否定していったために、「こころの救い」としての宗教の存在意義を失っていったのかもしれない。

とすれば、宗教の現代的意義とはもう一度「こころの救い」としての宗教を再認識することではないだろうか?