人生後半に事を成し遂げた人たち

4~5世紀の中国、東晋に法顕という僧侶がいた。
西暦337年生まれ、幼くして出家した。

399年、法顕64歳の時、
仏典を求めて、長安を出発、陸路インドに赴いた。
法顕が訪れたのはグプタ朝のチャンドラグプタ2世の時代で、
グプタ様式の文化が開花した時代であった。

法顕は都パータリプトラで3年間、仏典を研究し、
帰国はセイロン島に2年滞在、
海路をとってマラッカ海峡を通り、
412年に帰着した。
このとき法顕は78歳であった。

人生後半から事を成し遂げた人は結構多い。

日本で有名な人物といえば
19世紀初め、
江戸時代に日本の測量地図を作製した
「伊能忠敬」だろう。
伊能忠敬が測量を始めたのは55歳の時。
その後17年にわたって日本全国を測量して歩き続けた。

また、今の三井財閥の礎を築いた「三井利高」もそうである。
今の和歌山県、伊勢松坂から
江戸に出て三越の前身「越後屋」を開業したのは
三井利高が54歳の時である。

加藤裕治さんという弁護士がいる。
加藤さんはもともとトヨタ労組で
労働運動に従事していた人だ。
加藤さんは56歳の時一念発起して
仕事をしながら、ロースクールに通い
60歳で司法試験に一発合格した。

50代半ばから新しいことにチャレンジして事を成し遂げた人も多いのである。

私の場合はやむを得ずして再スタートを切らざるを得なかったが。
それでも、事を成し遂げることは決して不可能ではない。

必要とされること・・・

何十億の人に、かけがえのない存在だと、
言ってもらわなくてもいいのだ。
それはたった一人からでいい。
「あなたは、わたしにとって、
なくてはならない存在なのだ」と言われたら、
もうそれだけで
喜んで生きていけるのではないだろうか。
(三浦綾子)

必要とされ、感謝されること。

人が自身の存在価値を
感じ取れる瞬間があるとすれば
この一文につきるだろう。

仕事に評価は必要だ。
しかし、評価されることは相対的なものだ。
自分より評価が高い人がいれば
そちらが選択される。

そしてまた、
人は評価されることを望む。
しかし、
そのことを第一義的にとらえると
本来の存在意義を見失う。

一方、必要とされることは
絶対的なものだ。
評価とは異なるものさしが存在する。

この1年間
自分が必要とされることを
第一義としてやってきた。
もちろん仕事も
当然、評価されているし
その内容も決して悪いわけではない。

しかし、
まずは自分が必要とされ
感謝してもらえることを
第一義として取り組んできた。

幸い、
いろんな方から共同事業の
お誘いも受けるようになった。

ただ、自分が必要とされることに
軸足を置くことにかわりはない。

また、今後、自分が取り組むべきことも
明確にしている。

ひとつは地方の中小企業の活性化である。
そして、もうひとつは
「罪からの救い」だ。

このふたつの分野で一隅を照らすことができれば
それで本望だろう。

「痛み」は比較できない・・・

人間の苦悩は比較できないものです。
それも、苦悩がひとりの人間の苦悩であること、
苦悩がその人の苦悩であることが、
苦悩の本質に属しているからなのです。
苦悩の「大きさ」は、
苦悩しているもの、
つまりその人しだいで決まるものなのです。
~「それでも人生にイエスという」(V・E・フランクル)~

ここでいう「苦悩」を
「痛み」と変えても主旨は通じるだろう。

いろんな人から「悩み」を聞く機会も増えた。
曰く「人間関係がやっかいで・・・」
曰く「仕事がいきづまっていて・・・」

そういう悩みを聞くたびに
「少なくともオレよりましだろっ!!」
と言いたくなるのである(笑)

仕事はマイナススタート、
人間関係は滅茶苦茶。
どう考えたって、
悩みを打ち明けてる方が
私よりもマシなのである。

とはいえ、
歯痛に悩んでいる人にとって
「複雑骨折よりマシだろ」といっても
「痛み」は「痛み」なのである。

「痛み」は比較しても無意味なのである。
特に心の痛みは。

おそらく、痛みを理解してあげることが大切なのだろう。
自慢ではないが、
私はうんざりするくらい
満身創痍である(笑)
しかし、またそれだけ
人の痛みがわかるセンサーを
持ち得ているともいえる。

悩みを打ち明ける人は
つまり「心の痛み」を理解してほしいのだ。
そこに共感してほしいのである。
「わかってほしい」のである。

ただ、もし人が
「痛み」から救われるとすれば
あるいは救われたいと願うのならば・・・
そこに「神の愛」があれば、
救われるのかもしれない。