明日への手紙

明日への手紙

今日で、もう4年になる。
4年前のこの日、
3年ぶりに見た外の世界は
これまでとは違って
とても新鮮だった。

散歩の途中の道端に咲いた小さな花、
近所の庭先に咲いたバラ、
一瞬一瞬、ちがう表情をみせる空の雲
まるで、すべてを包み込むようなオレンジ色の夕日

どれもが愛おしく、美しく、新鮮なものに思えた。
だから、僕はその一瞬一瞬を焼き付けたいと願った。
写真の中に、映像の中に。

神は世界の細部に至るまで
美を宿らせたのだ。

だから僕は確信をもっていえる。
たとえどんなことがあろうとも
この世界は素晴らしく、また、美しいと。
決して絶望することはない。
希望を持ち続けることもまた、
人のつよさなのだから。

 


接見禁止の間、
僕は1日誰とも話すことのない
6か月間の日々を送り、
家族への手紙さえも禁じられた。

言葉を奪われた日々を
おくったことで気づいたのは
人は「愛している人に、愛している」と
伝えるだけで幸せなのだと。

気障に思われるかもしれないが、
では仮に
「あなたがただ一人に
たった一言伝えられるとしたら」と問われたら、
だれに何を伝えるだろう?
おそらく多くの人が
「愛している人に愛している」と伝えたい
と願うはずだ。

それは気障でもなんでもなく、
自然な感情だと思う。

そして、僕は恋歌を書き始めた。

「古今和歌集」以降、
歌の王道は恋歌だ。
五・七・五・七・七、という31文字の中に
伝えたい相手への想いを凝縮させていく。
だから、艶やかなまでに言葉がきらめいてくる。

三畳一間の閉ざされた空間の中で
僕は伝えたかった。
子どもたちへ、
妻へ、
本当は親しくなれたはずなのに
そうはならなかった人たちへ
そして、かつて愛した人へ
「あなたを愛している」と。

おそらく人が伝えたい言葉は
つまるところ、それだけだと思う。
他に何を伝えたいというのだろう。

だから、願ってやまない。
いつか僕の言葉が
君のこころに届くことを。

宗教の現代的意義を考える

久しぶりに教会のミサに参加。
コロナの影響もあり、外出自粛期間中は、ミサも中止されていた。
自分は諸事情もあり、カトリックの洗礼を受けたが、臨済宗、曹洞宗、黄檗宗、真言宗、浄土宗、浄土真宗、天理教、パブテスト、キリスト教団、とあらゆる宗教の説法を聴いている。

キリスト教以外で特に影響を受けたのは禅宗(曹洞宗、臨済宗、黄檗宗)と天理教である。

信仰とはどこか思考がワープすることだと思う。
合理的思考を飛び越え、一気に飛躍し、ワープしていく心的過程のように思う。

しかし、そこに「心の救い」もあるように思える。

一人で考えてもどうしようもない時、自分ではどうしようもない壁にぶつかったとき、「ともかく神を信じるから」となんの合理性も、脈絡もなく、思考をワープさせていく(笑)。

でもそのような無茶な思考プロセスで、その人の心が救われるとしたら、やはり、それは信仰の力といってもいい。

おそらく近代的思考はこのような思考の飛躍や非合理性を否定していったために、「こころの救い」としての宗教の存在意義を失っていったのかもしれない。

とすれば、宗教の現代的意義とはもう一度「こころの救い」としての宗教を再認識することではないだろうか?

ちょっと、アンニュイ・・・

ふと、心に空洞感が広がるときがある。
 
いつも張りつめている心が急に弛緩されていく感じ。
 
寂しいのか、悲しいのか・・・
よくわからず、
かといって、
落ち込むというのとは異なる感情。
 
ただなんとなく物思いに耽る・・
とはいえ、何かを考えているわけでもない。
 
自分の心の奥底に深く沈みこんでいく感じ。
決して、不快なわけでもないが、
どこか寂しく、もの悲しい気分になる。

しかし、人にはこういう時間も必要なんだとも思う。