実は・・・実話②

福岡県内に住む小学校教諭のA子さん。
年齢は30歳を過ぎ、結婚を意識し始めた。
たまたま知人の誘いで合コンがあり、
誘いに乗って、参加した。

合コンは盛り上がり、
泥酔したA子さん、
フラフラになり
その後の記憶はない。

さて、翌朝、起きてみると、
A子さんラブホテルとおぼしき
見知らぬベッドの上で
全裸のままになっていた。

「レイプされた」
A子さんは直感的にそう思い、
すぐに、病院に行って体液を取り出し、
DNAデータをとって警察に被害届を提出した。

その数日後、
A子さんはあるイケメンB君と
付き合うことになった。
B君は実業団バスケットボールチームへの入団が
予定されている長身のイケメン。
入団前の当時、
バル風の居酒屋でアルバイトしていた。

とにかくモテた。
B君目当ての女性客も多かった。
料理はうまいし、
長身でイケメン。
これでモテないはずがない

A子さんもゾッコン。
実はA子さん、小学校教諭でありながら、
趣味は競馬、
それも本格的で
30代でありながら
資産は1000万円を超えていた。
まだ収入がままならないB君に
車などを買い与えた。
そして二人は婚約した。

ただ、B君の生い立ちは
決して恵まれたものではなかった。
幼いころ、両親を交通事故で亡くし、
祖父母から育てられた。
ただ、この祖父母がすさまじかった。
子どもに手をあげるのは
親のしつけと考えるのが当たり前の世代。
B君は小さいころから、
今でいうDVにさらされていた。
暴力が日常化していたのである。

そのB君、ある日、お店の男性客と口論となった。
B君はその日は収めたものの
気分はおさまらない。
数日後、たまたまその男性を町中で見つけ
追跡、男性のアパートに乱入、
ゴルフクラブで滅多打ちにした。

B君は実業団バスケットボールチーム入りを直前にして、
傷害容疑で逮捕。
B君は取り調べを受け、指紋、DNAデータなどを採取された。
すると、とんでもない余罪が発覚したのだ。
A子さんの体内から採取された体液のDNAと
B君のDNAが一致したのである。

真相はこうである。
泥酔したA子さんをB君はちゃっかりお持ち帰りしてしまったのだ。
そして翌日、B君は仕事があったため
A子さんを置いてきぼりにして
そのまま立ち去ったのだ。

B君は傷害罪のほか、強姦罪でも起訴された。

驚いたのはA子さん。
婚約までしたB君が
なんと自分をレイプした犯人として起訴されたのである。
A子さんは被害届を取り消そうとしたが
時すでに遅し、A君は起訴されてしまっていた。

弁護側はB君の情状証人として
A子さんを裁判所に要求。
容疑者の情状証人として
被害者が証言台に立つという前代未聞の
証人要請を裁判所は却下。

結局、B君は懲役10年の実刑を宣告された。

A子さんはB君の面会に訪れ、
涙ながらに別れを告げた。

実は・・・実話①

実は・・・実話】

福岡県内でお持ち帰り用の焼き鳥屋さんを営んでいるAさん。
ある人物から「ちょっとこれ預かっておいてくれ」とある段ボール箱を渡された。
顔見知りでもあったため、何の疑問も持たず、Aさんはその段ボールを倉庫においていた。

数か月後、倉庫に出入りしていたAさんの長男B君が段ボールを発見し、その中身を開いた。
「かっこいい、モデルガン!」
そこには本物そっくりの精巧なモデルガン(?)があった。
B君、友達に自慢したく、それを中学校に持って行った。

当然、先生から取り上げられる。
取り上げられたモデルガンは教諭室の金庫に保管された。
ただ、そのモデルガンを手に取ったある教諭は、中に弾丸らしきものがあるのに気づき、校庭にもっていき、板を置いて、その板に向かった引き金を引いた。

「パン」という乾いた音が校庭中に響き、実弾が発射され、板が割れた。

「本物の拳銃!」
驚いた教諭は校長に報告し、すぐさま、警察が捜査に動き、Aさんは拳銃の不法所持、銃刀法違反によって逮捕、その後3年の実刑を受けた。

Aさんに拳銃を預けた知人は警察の捜査に「知らぬ存ぜぬ」と貫き通し、おとがめなし。
しかも暴力団組員だった。

Aさんは実刑3年、しかも暴力団との近親者と指定され、初犯刑務所ではなく累犯刑務所へ移送された。

Aさん、その知人を必ず有罪にもちこんでやる、とその意思や固い。

必要とされること・・・

何十億の人に、かけがえのない存在だと、
言ってもらわなくてもいいのだ。
それはたった一人からでいい。
「あなたは、わたしにとって、
なくてはならない存在なのだ」と言われたら、
もうそれだけで
喜んで生きていけるのではないだろうか。
(三浦綾子)

必要とされ、感謝されること。

人が自身の存在価値を
感じ取れる瞬間があるとすれば
この一文につきるだろう。

仕事に評価は必要だ。
しかし、評価されることは相対的なものだ。
自分より評価が高い人がいれば
そちらが選択される。

そしてまた、
人は評価されることを望む。
しかし、
そのことを第一義的にとらえると
本来の存在意義を見失う。

一方、必要とされることは
絶対的なものだ。
評価とは異なるものさしが存在する。

この1年間
自分が必要とされることを
第一義としてやってきた。
もちろん仕事も
当然、評価されているし
その内容も決して悪いわけではない。

しかし、
まずは自分が必要とされ
感謝してもらえることを
第一義として取り組んできた。

幸い、
いろんな方から共同事業の
お誘いも受けるようになった。

ただ、自分が必要とされることに
軸足を置くことにかわりはない。

また、今後、自分が取り組むべきことも
明確にしている。

ひとつは地方の中小企業の活性化である。
そして、もうひとつは
「罪からの救い」だ。

このふたつの分野で一隅を照らすことができれば
それで本望だろう。

「痛み」は比較できない・・・

人間の苦悩は比較できないものです。
それも、苦悩がひとりの人間の苦悩であること、
苦悩がその人の苦悩であることが、
苦悩の本質に属しているからなのです。
苦悩の「大きさ」は、
苦悩しているもの、
つまりその人しだいで決まるものなのです。
~「それでも人生にイエスという」(V・E・フランクル)~

ここでいう「苦悩」を
「痛み」と変えても主旨は通じるだろう。

いろんな人から「悩み」を聞く機会も増えた。
曰く「人間関係がやっかいで・・・」
曰く「仕事がいきづまっていて・・・」

そういう悩みを聞くたびに
「少なくともオレよりましだろっ!!」
と言いたくなるのである(笑)

仕事はマイナススタート、
人間関係は滅茶苦茶。
どう考えたって、
悩みを打ち明けてる方が
私よりもマシなのである。

とはいえ、
歯痛に悩んでいる人にとって
「複雑骨折よりマシだろ」といっても
「痛み」は「痛み」なのである。

「痛み」は比較しても無意味なのである。
特に心の痛みは。

おそらく、痛みを理解してあげることが大切なのだろう。
自慢ではないが、
私はうんざりするくらい
満身創痍である(笑)
しかし、またそれだけ
人の痛みがわかるセンサーを
持ち得ているともいえる。

悩みを打ち明ける人は
つまり「心の痛み」を理解してほしいのだ。
そこに共感してほしいのである。
「わかってほしい」のである。

ただ、もし人が
「痛み」から救われるとすれば
あるいは救われたいと願うのならば・・・
そこに「神の愛」があれば、
救われるのかもしれない。

1年が過ぎて・・・

凧が一番高く上がるのは、
風に向かっている時である。
風に流されている時ではない。
(ウィンストン・チャーチル)

昨年9月6日に佐賀に戻ってきて1年が過ぎた。
この1年間を振り返ると、
まさしく上のチャーチルの言葉に集約できるだろう。

逆風である。
とはいえ、高度は不十分ながら、上昇基調にある。

心痛することは山ほどある。
しかしながら、
「生きている」ことが面白くなった。

おそらく、不幸なことでも
そこに意義を見いだせることに
なったからであろう。

これは自論だが、
不幸な出来事を、
不幸なままに解釈していることが
最も不幸なことだと思う。

人生に不幸なアクシデントはつきものだ。
しかし、そこには必ず別の意義があるはずだ。
それに気づけば、
不幸は不幸ではなくなる。

先日、不思議なことが起きた。
熊本で打ち合わせのアポが入っていたが、
先方の都合でドタキャンになってしまった。
楽しみにしていたので凹んだが
翌日、クルマのタイヤがパンクし、
もし、熊本出張中、
高速道路でパンクしようものなら、
大事故にもつながりかねなかったことを考えると
命拾いをした、ともいえるのだ。

「護られている」そういう感覚に包まれた。
主イエスと聖母マリアに、である。

どんなことにも意義があり、
意味がある。
それは決して
楽しいことではなく、
辛いことであってもだ。

そう考えると、
生きることは俄然、有意義なものになる。
それがたとえ、つらいことであっても。

まだまだ逆風だ。
しかし、だからこそ凧は高く舞い上がるのである。