55歳の誕生日に思うこと

プロダクティブ・エイジング。
聖路加病院の名誉院長で昨年亡くなられた日野原重明さんの造語です。
アンチエイジングでもなく、
ウェルエイジングでもない「プロダクティブ・エイジング」

創造的な年齢の重ね方、という意味なんでしょう。

28年の9月に社会復帰して
その前の2年2か月に渡る
某医療機関での拘留生活を通して
決意したことが2つあります。

これから自分がやるべきこととして
決意していることは
社会的価値の創造、
そして公益性に寄与すること、
このふたつです。

具体的には
WEBマーケティングを普及していくことで
地方の中小企業の活性化に寄与すること、
そしてもうひとつは
「罪の赦し」「罪からの救い」
元受刑者の社会復帰を支援していくことです。

理解を得ること自体、
困難を要しますが、
しかしながら、
理解を広めていく活動そのものが
いずれ社会的価値の創造につながるものと
信じております。

55歳ですので
「GO!GO!」と(笑)
そんな気分で
「プロダクティブ・エイジング」を重ねていく所存です。

仏教の経典とキリスト教の聖書との違いに関する一考察

「法華経」「般若経」
仏教の経典で出てくる「経」という言葉。
これはサンスクリット語では「スートラ」という
もともとは線(いとすじ」のことをいうそうです。
元来スートラといわれたものは
ちょうど一本の糸にいろいろ美しい花を通して
花環つくって首にかけていたように
花にたとえられる大切な短い文句を
いくつもならべたものをスートラといったそうです。

ですからスートラの元来の意味は
散文の短い要法を集めたものです。
それを中国では「経」あるいは「経典」と訳しました。
ですから「経典」というのはもともと散文からできているわけです。

様々な「経典」を読むとわかるのですが、
どこから読んでもそこには仏教の知恵が示されており、
やはり散文を集めたもの、という印象を持ちます。

それに比べると、
キリスト教の聖書、特に「新約聖書」のなかの
4つの福音書(マルコ、マタイ、ルカ、ヨハネ)については
キリストの生涯を物語にしたストーリー性を帯びた形式になってます。
そこに示されているのはやはりキリストの圧倒的な存在感でしょう。
まるで、今でも生きているかのような実在感をもって
物語の中に息づいてます。
ですからクリスチャンの人の多くは
やはり聖書の中のキリストを信じた、
ということでしょう。

乱暴に言ってしまえば、
仏教の経典は散文のなかで
生きていく上での知恵が示され、
聖書ではキリストの生涯の物語を通して
神に通じる「罪からの救い」「罪の赦し」
「愛の実践」が示されている、
といったところでしょうか。

仏教でも親鸞の浄土真宗も「救いの宗教」ですから
そういった意味では浄土真宗とキリスト教では親和性は高いですね。

いずれにしても人生も後半に入ると
宗教的視座をもつことは重要だと思います。
私の場合、某医療施設で
多くの宗教講話を聴く機会をもつことができ、
宗教に対する知見を持ち合わせることができたことは
今思えば、有意義だったと思います。

元受刑者Aさんとの会話

医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく、病人である。
わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。
(マタイ福音書)

先日、元受刑者のAさんと30分間、電話で話した。
AさんはCADの職業訓練を受講しており、
11月にCAD技術者1級の試験をうけるそうだ。
私もCAD技術者2級の資格を持っているので
CADの話で盛り上がった。

「田中さん、保護会にも行ってみらんといかんよ」
「そうっすか?」

保護会とは更生保護会の略称で
受刑者が仮釈で出所した際、
身元引受人がいない場合に
一時的に最大6か月間、保護観察のもとで
生活をする施設のことである。

民間施設とはいえ、
仮釈中の施設のため、
自由は制限される。
ただし、昼間は協力雇用主
(元受刑者を積極的に雇用する事業主)
からくる日雇い募集に応募し、
(実際には建設土木関係のアルバイト)
生活費を稼ぐことになる。

実は、保護会、元受刑者からは
すこぶる評判が悪い。
Aさんがいうには
「保護会を出た後に再犯する人多いんですよ」
「保護会出ても、何をやっていいのかわからないし
目標がないから、再犯にいたるんですよ」

保護会では矯正教育がなされる。
相手は犯罪者なので
「矯正」しなければならない、
というわけだ。

しかし、そもそも刑務所自体が矯正施設であり、
そこでは各受刑者の資質を調査したうえで
矯正教育が施される。
そして、矯正教育が十分なされたという前提で
受刑者は社会復帰しても大丈夫とみなされ
仮釈放で出所するわけである。

つまり、仮釈放したら
そこで必要なのは「矯正」ではないのである。

しかし、一般的に多くの人が
出所した元受刑者にも「矯正」が必要だと考える。
しかし、それぞれの元受刑者に必要な「矯正」が何なのか
なんの知見も持たずに安易に「矯正」が必要だと考えるのである。

これは例えてみれば
問診も触診もまったくせずに
「おまえは病人だから手術してやる」
といっているようなものだ。
普通の人であれば耐えられない。
「ふざけるな」となるだろう。

しかし、そもそも
誰もが「元受刑者と一緒にされたくない」
と考えているため、
元受刑者の心情など聞くつもりもない。
相手の心情などまったく考慮することもないまま
「反省」だの「矯正」など求めてるのである。

サルか馬の調教くらいに考えているといっていい。
そもそも、元受刑者は「劣等な人間」くらいに考えているのだから。

刑務所で「反省」を求められたのだから
出所後に求められることは
「健全な社会復帰」と「再犯防止」である。
また「矯正」ではなく「再生」である。

こうしてみると
事実上、元受刑者に人権はない、といっていいだろう。

ただし、こういう状況は
つまるところ元受刑者を追いやり
再犯につながる環境をつくりだしている
といっていい。

パラダイムチェンジが必要だと思う。

「反省」ではなく「健全な社会復帰」
「矯正」ではなく「人生の再生」

おそらくこうした価値観の転換が必要なのだ。
少しずつであるが具体的プロジェクトも進んでいる。
これらが実現すれば画期的な支援システムの
プロトタイプができると思う。

このような人生の課題を与えてくれた神に
今は深く感謝している。

保護会はもちろん、元受刑者の更生と社会復帰を目的に
設立されており、
そのこと自体、善意によるものだろうが、
やはり、それでも
保護会退所後に再犯が発生することは
元受刑者の資質にもよるだろうが、
そのシステムにも何か問題があるということだ。