実は実話・・・⑥-16

「裁判はどうだったんですか?」

「まずは検察側の冒頭陳述がありまして、それから、証拠調べの請求があります」

「緊張しましたか?」

「それはそうですよ」
「ただ、裁判長が女性だったのには驚きました」

「へ~っ、そうだったんですか」

「えぇ、〇〇法子さんという裁判長で、私はノリピーといってました」

「ノリピー、ですか・・・」

「それが眼鏡が似合う知的美人でして・・・」

「裁判の場でしょうに!」

「ええ、でも久しぶりに女性を見たもので・・
しかも黒の法衣に眼鏡がよく似合う女性でして・・・」

「不謹慎きわまりない・・・」

「まともに裁判長の顔をみれませんでした」

「それはどうして」

「いや、ニヤケテしまいそうで・・」

「それは印象悪くするでしょうね」

「それで、裁判ではあなたは出欠をごまかしたことは認めたんでしょう?」

「はい、それは認めました。」

「では暴力団組長との詐欺の共謀については?」

「実際には三傘とのあったのは1回きりでして、その場ではそういう話はなかったんですが・・・法的には共謀したことは認めました」

「えっ?だって三傘とは共謀の話はなかったんでしょう?」

「はい、そうなんですが、私は嬉野の末尾、久留米の早河とは最初からいとしていたわけではありませんでしたが、結局、出欠をごまかすことは共謀しましたし、彼ら二人はおそらく三傘と段取りを組んでいたはずですので、私が直接三傘と共謀しなくても、末尾、早河が三傘と共謀していたのであれば、間接的ではあるにせよ、私は三傘と共謀したことになるんです」

「えっ??そうなんですか?」

「はい、直接共謀はなくても間接的であるにせよ法的には共謀したことになります」

「う~ん・・・なんか不条理な話ですね」

「まあ、そうですが仕方ありません。ただ、私が開校前に認めていたのは遅刻や早退は大目に見るというくらいでしたので、まさか欠席をごまかす羽目になるとは思ってもいなかったんです」
「それがメールで『遅刻や早退は大目に見るが欠席のごまかしは糊塗できない』と送っていたことが証拠として提出されていました」

「そういうメールが残っていたことは不幸中の幸いですね」

「えぇ、ただ裁判ではやはり警察、検察の取り調べの実態がどうだったのかが、争点のひとつとなったのです」

「どうして?」

「私が裁判でひっくり返した供述がとられてしまった背景には何があったのか?ということがやはり裁判での検証すべき大きな争点となったのです」
「これは一般の人にはなかなかわからないことですが、やはり、取調室の密室の中では、恣意的に供述が捜査機関によって誘導され、ねつ造に近い供述がとられることの危険性があることを示すものでもあるからです」

「まあ、その辺のことはまた次回にお話を伺いましょう」

to be continued・・・・

LUCAという社名に変更しようか・・・

昨年の8月15日に受洗して10か月がたちます。
LUCAのクリスチャンネームはもちろん聖書の中の「ルカの福音書」に拠っています。
ルカは他の福音書の著者、マタイ、マルコ、ヨハネとは異なり、唯一ユダヤ人ではない、当時としては異邦人であり、パウロの巡礼に医者として同行した聖人です。
つまり、ルカは知恵に満ちた聖人ともいえるでしょう。

人に生きていくうえで必要な言葉は
愛に満ちた言葉、
希望に満ちた言葉、
知恵に満ちた言葉、
そして、ほんの少しのユーモアだと思います。

そこで、最近は
自分の会社名もLUCAに変更したいと思うようになりました。
今はSEPIですが、
これはSocial & Environment Planning Instituteの頭文字をとったものです。
とはいえ、今はWEB解析とWEBマーケティングが中心ですから、内容は変化しています。

そう考えると
これからは会社名を変更して、LUCAでいいかな、と。
愛と希望と知恵に満ちた仕事をしていこうかと・・・

ちなみに、聖路加病院は「聖ルカ」から来ています。
読み方は「聖ロカ」ではなく「聖ルカ」ですね。

LUCAという名前のクリスチャン系のコンサルティング会社もあっていいかもしれません。
もう少し業績を上げて、経営体として体裁が整えば、会社名を変更します。

山口達也さんの再起を考える②

山口さん、ネットでたたかれてますが・・・

少なくとも、被害女性の女の子を
まるで「夜に呼び出されてうかうか行く方も悪い」という論調は言語道断である。
女の子は用心のため友人を連れて行ってもいる。

とはいえ、被害者と山口さんは示談はすんでおり、
第三者がとやかく必要はない。

しかし・・・・
山口さんの行為は批判されるべきものではあるだろうが
一番の問題は山口さんが再起を図るための
心の修復ができるかどうかだ。

反省しても意味はない。
反省したところで、
こころの病み(=闇)を修復しない限り
どこかで、罪へのスイッチが入るからだ。

福岡の高校名門サッカー部に所属していたM君という人物がいる。
彼はのちに福岡の教育大学に進学したものの
教師への道をあきらめ、風俗店経営を始めた。

順調だったものの
年齢も査証した18際未満の少女を雇ってしまい
児童福祉法違反などの罪で
5年間の懲役をくらった。

懲役先はいじめで有名な川越少年刑務所。
そこで、さらに病んでしまって
出所後、フランスの外人部隊に入隊、
アルジェリアでの戦場経験を終えて
日本に帰国。

初犯から9年後、罪を犯し2刑。

3刑目は人の口座にハッキングしての罪。

彼はこういった。
「オレ、子どものころ、オヤジからDVうけてたんですよね。
病んでますから、田中さん、仕事は無理ですよ」

反省は無意味だ。
反省したところで
心の病み(=闇)を修復しない限り
どこかで罪へのスイッチが入る。

罪のスパイラルから人を救うとしたら
それは「愛と希望」だ。

M君はいう。
「累犯刑務所に行っても
みんな『死にたいけど死ねないから生きてます』という感じです」

一度「罪のスパイラル」に落ち込むと
希望が失われる。

さらに、『愛される』機会は失われる。

「孤独と希望」の対極は
「愛と希望」だ

山口さんが
「孤独と絶望」の淵に立たされ、
いつか、
その対極にある価値、
「愛と希望」に向かって心の再起が図れることを
心から願っている。