世界を見つめる視点。

世界を見つめる視点。

視点を変えれば、見方が変わる。
見方が変われば、認識が変わる。

世界をどう見るか。
その視点が大事だと思う。

写真を撮ったり
それをもとに動画をつくったりするのが趣味。
しかし、壮麗な風景を撮るというのは滅多にない。
日常の他愛ない風景。

世界は美しい。
神は細部に宿るともいう。
その細部にある美を見つめることができるかどうかだと思う。

年齢を重ねると、変化に乏しい日常に、
感受性が鈍ってくる。
しかし、それでも、他愛のない日常に美を見出していく作業。
それは、私にとっては写真を撮ったり、動画をつくったり。

他の人にとっては絵をかいたり、和歌や俳句を詠んだり。
和歌や俳句は言葉のスケッチブックのようなもの。
そんなことができる人は健全な感受性を持ち合わせている人だと思う。

変化のない日常に美がないということではなく、
私たちの感受性が日常に美を見出すのだ。



人生の後半、自分を振り返る

人生の後半、自分を振り返る

人生の後半、
ユング心理学の大家、河合速雄先生は「人生の後半、人は死に向かう生を生きる」と語っていました。

未来は狭まり、これまでの生の足跡が累積してくる。
おそらく、だれもが50代後半にもなると「これからの自分」と同様に「これまでの自分」を振り返ることも多いと思う。

嫌なこと、楽しかったこと、幸福な時間、不幸な出来事。
それらを少し俯瞰して見つめてみる。
たぶん、そう考えてみることもあるだろう。

たぶん、大事なことは「楽しかったか」「悲しかったか」、「不幸だったか」「幸せだったか」という価値基準を超えて、「それが自分の人生にどういう意味があったのか」という観点で考えることができるかどうかだと思う。

自分の人生の中で、それぞれの出来事が「どういう意味があったのか」。

不幸な出来事に遭遇したとしても、それが何かしら自分の人生を変えていったとしたら。
もちろん悪い方向に変えていったとしたら困ったことだが、「不幸な出来事」に出会って、価値観が変わることもあり、生き方が良い方向に変わることもある。

それは幸か不幸かという基準ではなく、「どういう意味があったのか」という観点でみないと、わからない。

神がいるとして、神がなにかしらそれぞれの体験を通して「何かを伝えたい」としたら。
それらは神の恩寵なのかもしれないではないだろうか。
たとえ、それがひどくつらいものであったとしても。

遠藤周作がテーマとしてきた「神の沈黙」。
その沈黙にある神の愛を信じてみるのもいいかもしれない。





自分を信じるということ

自分を信じるということ

「自分を信じなさい」
まるでメンターのように人はいう。
でも「自分の何を?」
自分の可能性?
自分の能力?
自分の未来?
自分の人格?
なんだろう・・・・
でも一番信じるのは
あなたがいまここにいて
存在していることの価値だと思う。
人が何と言おうといい。
いま、あなたがどういう状況であろうといい。
ただ、あなたには生まれてきた意味があり、
だからこそ、生きる意義があるのだ。
人がどういおうがどうでもいい。
神はあなたに命を与えた。
だからまっとうしろ。
あなたが生まれてきた意味を
あなたが生きていることの価値を
最後の最後まで体現するのだ。
あなたは生まれてきた意味があり
価値があり
だからこそ
愛し、愛される価値があるのだから。