大林宣彦監督の最新作「花筐 HANAGATAMI」が
今年12月に劇場公開される。
檀一雄の純文学小説『花筐』の映画化である。
大林監督の尾道三部作はすべて観ている。
特に「ふたり」は大好きな作品。
このテーマ曲は久石譲で、
またこの曲はよかった。
しかも、この曲を大林監督が歌ってもいる。
大林監督は肺がんで
余命宣告までされながらの制作。
撮影場所はなんと唐津である。
撮影の協力した地元の人によると
大林監督は撮影中も時々、数日間
休みをとっていたらしい。
地元の人は大林監督が
大病を患っているとは知らなかったため
あとから考えると
おそらく検査治療のための
休日ではなかっただろうかと話していた。
この映画撮影は唐津市民の多くの協力に拠るそうだ。
唐津市民の寄付も製作費の一助になったらしい。
映像表現では特に鷹島が大林監督独特の映像表現で映しだされているらしい。
唐津市民の今回の大林監督の映画製作とのかかわりについて
ホームページもありますので一度ご覧ください。
ホームページは上記画像をクリックしてください。
カテゴリー: モノローグ
日常の中でふと感じることを綴ってみました。
私の読書遍歴:西田幾多郎「善の研究」、その「罪」と「救い」
罪を知らざる者は
真に神の愛を知ることはできない
(西田幾多郎)
西田幾多郎といえば
名著「善の研究」の著者。
西田氏は西洋哲学を
古代ギリシャから現代まで
彼なりのやり方で咀嚼し
そのうえでそれに拮抗しうるだけの
「日本の哲学」を生み出そうとした。
しかし、実生活では
彼の家庭は決して幸福なものではなかった。
子ども8人のうち、5人を亡くし、
病気の妻を5年間看病したあげくに失うという
人生の深い悲哀にくれた。
「善の研究」を読むとわかるのだが
ぎりぎりの思推をさらに詰めていきながら、
まるで徹底的に打ち鍛えられた
鋭利な刀のような輝きをもった
言説が綴られている。
「純粋経験」という独自の概念を打ち出しながらも
最終的に宗教観にたどり着く。
西田氏にとっての罪とはなんだろうか。
おそらく彼は
子どもや妻を失った深い悲哀と同時に
家族を幸福にできなかったことへの
負い目、罪悪感を有していたのだろう。
しかし、その負い目も
決して解決できるものではなく、
それゆえ、悶々としながら
永遠に負わなければならない罪の重さを
自身、日々に感じざるを得なかっただろう。
贖罪できるものではないがゆえ、
救いを、神に希求せざるを得なかった、
それが西田氏の心境ではなかっただろうか。
西田氏の哲学は「苦悩の哲学」とも言われる。
ぎりぎりまで思推を詰めていきながらも
救われることのない罪の意識。
そのことが、
西田氏が神を求めざるを
得なかった理由のように思える。
「善の研究」は日本哲学の金字塔である。
と同時に、思考し続けることの崇高さをも教えてくれる。

1年が過ぎて・・・
凧が一番高く上がるのは、
風に向かっている時である。
風に流されている時ではない。
(ウィンストン・チャーチル)
昨年9月6日に佐賀に戻ってきて1年が過ぎた。
この1年間を振り返ると、
まさしく上のチャーチルの言葉に集約できるだろう。
逆風である。
とはいえ、高度は不十分ながら、上昇基調にある。
心痛することは山ほどある。
しかしながら、
「生きている」ことが面白くなった。
おそらく、不幸なことでも
そこに意義を見いだせることに
なったからであろう。
これは自論だが、
不幸な出来事を、
不幸なままに解釈していることが
最も不幸なことだと思う。
人生に不幸なアクシデントはつきものだ。
しかし、そこには必ず別の意義があるはずだ。
それに気づけば、
不幸は不幸ではなくなる。
先日、不思議なことが起きた。
熊本で打ち合わせのアポが入っていたが、
先方の都合でドタキャンになってしまった。
楽しみにしていたので凹んだが
翌日、クルマのタイヤがパンクし、
もし、熊本出張中、
高速道路でパンクしようものなら、
大事故にもつながりかねなかったことを考えると
命拾いをした、ともいえるのだ。
「護られている」そういう感覚に包まれた。
主イエスと聖母マリアに、である。
どんなことにも意義があり、
意味がある。
それは決して
楽しいことではなく、
辛いことであってもだ。
そう考えると、
生きることは俄然、有意義なものになる。
それがたとえ、つらいことであっても。
まだまだ逆風だ。
しかし、だからこそ凧は高く舞い上がるのである。
