高校野球大会歌「栄冠は君に輝く」の作詞、加賀大介さんのこと

この時期、地元の声援を受けて出場する
高校球児の活躍が楽しみのひとつになる。
高校野球でどうしても思い出すのが
大会歌「栄冠は君に輝く」の作詞家、加賀大介さんのことだ。

高校野球大会歌は1948年、朝日新聞社の大会歌詞募集で
加賀さんは後に妻となる中村道子さんの名を借りて
応募し、見事、5,252篇中の1位となった。

賞金は当時の金額で5万円、
当時の公務員給与の10倍以上だったらしい。

加賀さんはもともと野球少年で
16歳の時、練習中足を怪我し、
その怪我が悪化し、右足を切断した。

野球の夢は断たれ、
その後、加賀さんは詩作にふけるようになり、
プロの文筆家となった。

そうした中、
朝日新聞社の大会歌詞募集を知り、
後に妻となる中村道子さんの名で応募、
見事、「栄冠」を勝ち取ったのである。

加賀さんは
自分の作詞であることを伏せていたのだが、
1968年に真相を明かし、
その後は「加賀大介作詞・古関裕而作曲」と
表記されるようになった。

加賀さんは甲子園で
高校野球を見ることを夢見ていたが
その夢を果たすことなく、他界した。

野球少年であった加賀さんは
足を切断した時に
夢を断たれた。

しかし、詩作に耽け、
高校野球の大会歌を作詞することで
加賀さんは高校野球に永遠に名を残すことになった。

加賀さんの野球への情熱は
高校野球への夢は
別の形で実現したのである。

人生は決して直線的に進まない。
流れがよどめば、
別の道を見出し、
新たな流れをつくりだす。
そして宇宙は必ず新たな接点を見つけ出すのだ。

Clitical(批判)からCreative(創造)へ

Clitical(批判)からCreative(創造)へ

健全な批判は必要だ。
だが、批判が知的生産活動であるためには
2つの要件が必要だと考えている。

一つは批判することによって
新たな知見が見出される場合である。

もう一つは、批判の対象へのアンチテーゼとして
それとはまた別の
新たな価値を創造することだ。

健全な批判力は必要だ。
しかし、えてして
それが単なる感情の吐露にすぎない場合も多い。

昨今の国会での討論が不毛なのは
政権批判にまったく新たな知見を
見いだせないことだ。
また、政権への批判をテコに
新たな政策を提案できるほどの
創造性もない。

あるいは
自身の歪んだ自己承認欲をみたさんがために
人を批判するといった卑屈な人もいる。

北野武のTVでの圧倒的な毒舌による批判力も
それは、
彼自身の映像分野等での創造力に反映している。
北野武の批判力は芸術分野での創造力につながっていることがわかるからだ。

批判が知的生産活動であるためには
そこから新たな知見を見出せるか、
あるいはまったく別の価値を創造するかだ。

でなければ批判する意味も価値もない。

*写真は「ブルーベリー」
花言葉は「知性」

不幸の意義を考える

九州は台風の通り道だ。
年平均3.2~3.3回ほど台風が通過する。
時には甚大な被害をもたらし、
家屋の損害、死傷者が出てしまうこともある。

だが、その台風も、地元の漁師さんにとっては
決して、災いをもたらすもの、というだけではない。
台風が来ることにより、海が荒れ、
海底が掘り返されることによって、
海草が豊かになり、結果、牡蠣の豊作などにつながるという。

人間にとって不幸な災害であっても
それはまた別の側面も有しているのである。

人生には不幸なアクシデントはつきものだ。
時に失意し、絶望の淵に立たされる。

しかし、その不幸な出来事も
別の側面が必ずあるはずだ。
「不幸な出来事」の裏には
何かしら別の意義を見出せるはずだ。
別の道に通じる何かを・・

アウシュビッツ強制収容所から生還した
ビクトル・E・フランクルは次のように語った。
「人間はあらゆることにもかかわらず
強制収容所の運命の下にあったとしても
人生にイエスということができるのです」

一見不幸と思える出来事は
おそらく、私たちに何かを問いかけているのであり、
その「答え」はそれぞれの自由な意思にゆだねられている。

何を見出し、どこに行くのか。

おそらくもっとも不幸なことは
不幸な出来事を不幸なままに受け止めていることだ。

その背後には必ず何かしらの意義を見出せるはずだ。
そして神は私たちがその意義を見出すことを待ち望んでいる。

*写真の花はガーベラ
花言葉は「前進」