大人の艶っぽさを考える

大人の色気とはなんだろう。
おそらく、それは「香り」のようなものだと思う。

医療施設に数年いた期間、
隣の男性から
「田中さん、こいばみらんね」と
結構、グロいエロ本を渡されたことがあった。

実は、この手の本は苦手なのである。
「ウソだろう!!」と思われそうだが、
いかにも、
男性誌の袋とじなど見ていそうに思われがちだが、
実は、まったく苦手で
げんなりしてしまうのである。

単に艶っぽさを演出するのであれば
手の表現だけでも十分色っぽいと思う。
過多に肌を露出する
フィジカルな色気よりも、
この写真のように手の繊細な表情、
これだけでも十分艶っぽいと思うのである。

ほんのりと漂う艶っぽい「香り」。
たぶん、大人の色っぽさとはそういうものだろうと思う。
そうした香りのある大人でありたい。いた

美容室ASKの林田さんのこと

佐賀市にある美容室ASKの林田さん
御年70過ぎではあるがお若い。
金融機関からのご紹介で
WEBサイトのリニューアルをしたいとのご希望に沿って
いろいろアドバイスさせてもらっている。
既存サイトが契約上、あと2年間は継続されるが
その後は、また違うものをつくりたいそうだ。

ともかく発想が若い。
何しろ70過ぎでありながら
プロが使うような画像処理ソフトの
フォトショップとイラストレーターを使って
チラシやDMをご自分で作成されている。

少々ご不満があるそうで、
それがなんと
「田中さんはさっさと自分でやってしまって
もう少し作り方を教えてほしい」とのこと・・・

3日間であらかた作り上げたいので
「さっさと自分でやって」しまうのだが
「きちんと自分でつくれるようになりたい」と
リクエストしてこられた方はほんとに少ない。
ましてや林田さんのご年齢で・・・・

ご自身でフォトショップやイラストレーターを使い、
さらにWEBサイトも自分でつくれるようになりたい
というこの高い学習意欲!

ほんとにすごい女性である。

人格攻撃をネット上でする人たちに関する一考察

きれいごとをいうわけではないが、
私自身、言葉はとても大切で
何しろ6か月間の接見禁止を受けた経験があるゆえに
その間、家族とも誰とも会話をすることがなく、
それゆえ、
自分にとっての言葉は
愛に満ちた言葉、
希望に満ちた言葉、
知恵に満ちた言葉、
そしてほんの少しのユーモア、
それだけが大切で
それ以外は不要である。

ネット上で人格攻撃をする人たちがいる。
もちろん、相手側にも非があるだろうが
しかし、こうした人たちの病理性は
相手に非があることを免罪符にして
自身の病んだ部分の不満解消の手段のごとく
延々と相手の人格攻撃を続けることだ。

「自分は正しい。悪いのはあいつだ」
という単純な構図でもって
攻撃対象が悪く、
自分は正しいと主張し、
共感を得ようとする。

しかしながら、こうした人たちの多くは
「自分は正しいのに認められていない」という
ゆがんだ自己承認欲があり、
事実、「自分は正しいことを言っているのに閉職にいる」
といった人物もおり、
つまり、心は病んでいるのである。

こうしたゆがんだ自己承認欲を持つ人たちは
だれか攻撃対象となる人物を攻撃することで
「あいつは悪く、自分は正しい」という図式の中でしか
自身のアイデンティティを持ちえないという
病的な心理状況にあるのだ。

一方、罪を犯して
そこから健全な再起を果たした人の多くは
自分自身のことを深くみつめ
心の奥にある病んだ部分を
修復することで新しく自分を再生していく
という心のプロセスを経ている。

自分の心の奥深くにある病んだ部分を
真摯に見つめ、そこを修復するという
心のプロセスには痛みを伴うこともある。
例えば、幼少期に親からDVを受けていた場合。
思い出したくもない過去を思い出し、
さらにそうしたつらい過去を受け入れるという
心のプロセスも必要になるからだ。

自分の病理性を真摯に見つめ
修復するからこそ
再起ができるのである。
それが起点である。

しかし、
人格攻撃を執拗に続ける人は
「相手が悪く、自分は正しい」という構図の上でしか
自己承認欲を満たせないがため、
自身の心の病んだ部分を真摯に見つめようとしない。

よって、
こうした人たちは
自分の病んだ心を修復する機会を
自ら捨て
あくまでも
「相手が悪く、自分は正しい」という
構図の上で、
相手の人格攻撃をするとことでしか
自己承認欲をみたせないのだ。

つまり
彼らの心はいつでも病んだままだ。

「汝、復讐することなかれ」
聖書の言葉だ。

自身が人格攻撃されたからいうわけではない。
何度も言うが
自分の病んだ心を修復しない限り
罪のスパイラルの中で
延々と罪を犯し続けるだけだ。
それは法的な罪ではなくとも・・・

ただ、それでは本人が救われないだけである。

 

相模原市障害者施設殺傷事件から2年の今、考えること。

佐賀県の障碍者福祉計画策定のための調査を受託したことがある。
その中で佐賀県内白石町に住むある夫婦の事例が印象深かった。

その夫婦は
夫が糖尿病で両足切断、失明していた。
妻はほとんどつきっきりで看病しており
客観的に見ると
どう考えても「不幸な状況」のようにしかみえなかった。
しかし、
その奥さんはこういったのである。
「私はとても幸せです。
いつも主人のそばにいれるから」

なんだろう・・・
もう20年以上も前の話なのだが
今でも思い出し、考えてしまう。

おそらく、
奥さんの方からすると
夫がどのような状態であろうと
「かけがえのない存在」なのだ。
他に代替えすることのできない
自分にとってはただ唯一の
「かけがえのない存在」なのだ。

そういえば、
今年7月26日
相模原市障害者施設殺傷事件から2年がたつ。
知的障害者福祉施設「津久井やまゆり園」に、元施設職員の男が侵入し、所持していた刃物で入所者19人を刺殺し、入所者・職員計26人に重軽傷を負わせた大量殺人事件である。

犯人の男は
ようするに優性思想に基づき
知的障害者は社会に不要だと考えたわけである。

しかし、
外形的にはどうであれ、
障害があろうとどうであろうと
その人のことを
「かけがえのない存在」として
愛する人もいたはずだ。

であれば
他人がとやかくいう必要はない。

そしておそらく
唯一の「かけがえのない人」
と思えることが愛することの本質なのだ。

それは客観的に「みえる」何かではなく、
存在そのものが唯一でかけがえのないものと思えることなのだろう。

そして、おそらく
「かけがえのない自分」であることを認識することで
「かけがえのない生」を生きることが可能なのだ。

評価で生きることは不要だ。
「かけがえのない自分」を生きることが大切なのだ。

日本サッカーのポーランド戦に関する一考察

ワールドカップサッカーの
日本ポーランド戦について
以前FB上で
「逃げるは恥だが役に立つ」とコメントした。
つまるところこういうことだろう。
ただ、ポーランド戦における日本の戦い方に不満をもつのもわかるが、果たしてそういう視点だけでいいのか?
あるいは勝ち抜くのが得か、
それとも戦う姿勢を貫くのがフェアか、
という視点のみでいいのか?

セネガルと勝ち点、得失点差での差はなく、つまるところ、警告数で日本が少ないことによって、日本が予選を突破したということは、つまり、日本が予選リーグでセネガルよりもフェアプレーで戦ってきたということである。

事実、予選リーグHグループでは日本が最も警告数が少ないのだ。
すなわち、Hグループ内で最もフェアプレーな「戦い方」をしたのは日本なのである。

このことを考えると、
ワールドカップの予選リーグを突破するためには
日本のようにフェアプレーに徹した「戦い方」をした方が有利である、
ということに気づいた指揮官もいたはずだ。

日本の予選突破は
つまりフェアプレーに徹した日本の「戦い方」が評価された結果なのである。
予選リーグを通して
日本がフェアな「戦い方」をしてきたことについて
ポーランド戦での「戦い方」のみを批判することは
あまりにも表面的すぎる。

私たちはそうした「戦い方」への批判ではなく、
日本チームが予選リーグを通して
フェアプレーで戦ってきたことを誇りにすべきだ。