量子物理学的に世界を考える②

量子物理学の初歩
「観察されるもので、観察者に影響されないものはない」

量子物理学においては量子の働きは観察者によって変化するらしい。
有名な二重スリットの実験では
観察者がいるのといないとで、
量子は波と粒子の性質を使い分けていることが明らかになっている。
さらにいえば、観察者によって量子は過去の性質も変えているらしいことがわかっている。
未来が過去を変えることを「逆因果」の法則といわれている。

こうしたことを考えると、
究極的には「客観的な事象」はなく
すべての事象は「主観的」であるともいえる。

主観とは
その人の見方であり、
見方が認識をつくり、
認識が経験をつくる
といってもいいだろう。

そこで、このことを私たちの人生観にあてはめて考えてみる。

阿蘇在住で、両手がなく、義手で絵を描く大野勝彦さんという画家がいらっしゃる。
阿蘇にある「風の丘阿蘇大野勝彦美術館」には一度見学したが、
すばらしい作品が展示されていた。

大野さんは平成元年 農作業中、機械により両手を切断した。
しかしその後、義手で絵筆をとり、
詩作にふけり、その作品が多くの人の共感を呼んでいる。

さて、ここまでいうと、
大野さんが悲劇的な事故を乗り越えた
芸術家、というイメージで称賛する人が多いだろう。

しかし、大野さんは
そのようなイメージで見られることを嫌ってもいる。
なぜなら彼は
両手をなくした今の人生が有意義で満たされているということを
あらゆる機会を通して発言しているからだ。

もちろん、そのような認識に至る数年間
大野さんが苦悩していることは
美術館の作品からも明らかである。

だが、現在の大野さんは
両手をなくしたことについて
逆によかったとさえも発言している。
それはあくまで大野さんの主観であるのだが。

しかし、すべての事象が主観によるものだとしたら、
それは外界の条件に寄ることなく
人は常に自由な存在でありつづけ、
新しい可能性を自ら創造することができることをも示している。

さて、前述の大野さんの事例を考えてみる。
大野さんの事故、
両腕を農機器で失った、という事故は
不幸以外の何物でもない。

ご本人も悲嘆にくれる日々を
数年間、送ってはいる。

しかし、その後の大野さんは
両腕がないこと自体が不幸とは考えず、
それどころか充実し満ち足りているともいっているのだ。

もちろん、それは大野さんの「主観」であり、
それを「客観的に」評価することはできない。

しかし、だからこそ
大野さんは「客観的な」評価に寄らず、
自分自身の人生を豊かに生きることができるのである。

すべてが「客観的に」評価され、
それに基づくものであれば、
「客観的に」不幸で悲劇的な事象がおきれば
人は常に「不幸」であることになる。

しかし、すべては「主観的」であるとすれば
外界の事象がどうであれ、
それを「主観的に」受け止め、解釈し、
そこに「意味」や「意義」を見い出せれば、
その人は外界の事象に縛られることなく
自由に生きることもできるのである。

完全に「客観的な」事象はありえない。
少なくとも現代量子物理学では。

すべての事象が観察者に影響されるということは
どのような主観をもちえるか、によって
すべての事象も変わりえることであり
主観の持ち方そのものが重要である、ということでもある。

つまり、主観はその人の見方であり、
見方が認識をつくり、
認識が経験をつくっている、
といってもいい。

であれば、
私たちの見方を変えることで
私たちは外界に限定されることなく、
経験、その意味や意義を変えていくことができる、
ということもいえるのだ。

禅とユング心理学

禅の公案はまさしく禅問答、
わけがわからない。

有名な公案で「隻手の音声」というのがある。
これは片手で音が出るか
(つまり両手で拍手するような音が出るか)
という問いの答えは「無」である。

このような問答を修行僧は延々と続けるのである。

さて、禅の公案のひとつに
「牛が目の前を通っている。
頭が見えたが、しっぽは見えなくなった。
なぜか?」
というのがある。

答えは「自分が牛になったから」

こうなるとますますわけがわからなくなるが、
この禅の思想に「私とは何か」という根源的な問いが含まれていると
ユング心理学の大家、河合隼雄氏は論考している。

河合隼雄氏はここでいう「牛」とは本質的な「自己」のことであるという。

禅の悟りに至るプロセスを10段階にわけて
比喩的に説明されるものに
十牧図というものがある。

簡単にいうとこうである。

牛を飼いならす少年がいる。
その少年の前から牛がいなくなった。
牛を探す少年の前に牛の足跡がある。
少年は牛を追いかけ
牛を発見する。
牛を手なずけようとするが
牛は暴れて、なすすべがない。
しかし、なんとか手なずけて
少年は牛の上に乗り、
旅を続ける。
そのうち少年は老人と出会う。
そして、すべてが調和した世界を体感する。
そしてそれらの全てが一体化し、無の境地が生まれる
(これが悟りの境地であるという)

ここで終わりかというとそうではなく、
そのあと、また少年と老人が出会うプロセスに移行するのである。

つまりすべてが一体化した世界では
無になり、また、新たなスタートが始まるというわけである。

河合隼雄氏はこの「牛」こそ
本来の「私」の象徴であるという。

私は「自分が何者か」わからず、
自己探求の旅に出る。
そして、自己を発見し、
なんとか本来の自分になろうとするが
なかなかうまくいかない。
なんとか「本来の自己」となったとき
調和した世界を体感する。

しかし、それはまた
「無」の世界にいたるのである。
このことが意味するのは
河合隼雄氏にいわせると
「目標の自分があるからこそ
それに向かえるのであるが
その自分と同一化したとき
無になってしまう」ということである。

そこで再度、世界を分割し、
また、「牛」(=私)を探す旅に出るのである。

河合隼雄氏は
私たちはこうしたループを繰り返しているという。
つまり言外に「輪廻転生」を繰り返しているといってもいるのである。
もちろん、河合隼雄氏はそこまでははっきりといってないが。
しかし、実質上、「輪廻転生」のことである。

河合隼雄氏のこの死生観には影響された。
今の私の死生観はこの河合隼雄氏のそれと一致している。

おそらく、私たちは輪廻転生を繰り返し、
「自分ではない自分」として誕生し、
自己探求の旅に出て、
そこで自己創造を繰り返しているのだ。

つまり自己創造と自己探求こそ、
私たちの生の意味であり、意義であろう。

そうであるからこそ、
それぞれの個人に人生の課題があるはずであり
そのための生だと考えられるのである。

そしてまた、
その生を完成させるための知恵は組み込まれているはずだと考えている。
それがDNA(=Divine Natural Awareness)「聖なる自然の知恵」であろう。

だからこそ、
自分の心に問いかけることが大切なのだ。
深く、その奥底にある心の声に耳を傾けることが大切なのだ。

 

人が立ち直るということ・・・・

先日、40代のある男性と出会った。
高校の後輩にあたり、
某国立大学を卒業後、
現在はアルバイトで生計をたて、独身らしい。

これまでの職歴を聞くと
能力はあるようだが
将来設計がみえてないようでもある。

人生は必ずしもうまくいくわけではない。
どちらかといえば
不条理でさえもある。

いささか、不条理で
「自分にどうしてこんなことが?!」と
思えるようなことでも
そこで答えを出すのは自分自身でもある。

フランクル流に言えば
「人生に問うてはならない。
人生から問われているのはあなた自身だ」
ということであろう。

厳しいようだが、
実はこれはどれほど厳しい現実があろうとも
それに対してどういう答えを出すのかは
あなた自身の自由でもある、ということである。

つまり「厳しい現実」を前にしても
それに対する考え、態度については
選択の自由が残されているのだ。

それがたとえアウシュビッツであったとしても。

では、「あなたの責任であり、あなたの選択の自由である」として
はたして、それをいう当人がどういうつもりで
相手にいっているのか?

つまり、そういうことで
相手へのかかわりを避け、
単純に言えば
相手を言い負かしたいだけの方便になっているのが
実態である。

それは違うとして、
しかし、
「あなたの責任であり、あなたの選択の自由である」という命題は
ある可能性を示してもいるのである。

私自身は
人は自己治癒能力を有しており、
つまり、自分自身の心の深部に立ち返れば
いずれ、その人の人生は立ち直れるというスタンスにいる。

「あなたの責任であり、あなたの選択の自由である」
ということは私にとっては
誰もがコアなる自分自身に立ち返れば
そこで、最善の方策は
自分自身がすでに答えを有している、
という別の意味も含んでいると考えるのである。

それを私はDNA
(=Divine Natural Awareness 「聖なる自然の知恵」)と呼んでいる。

その人の心にある「聖なる知恵」。
おそらく、だれもがそうしたDNAを有しているはずである。

自分自身に問いかけ
外界の事象にとらわれることなく
自分の心に対峙すれば
必ず自分の心は答えてくれるはずである。

孤独は決して苦痛ではない。
いや、孤独だからこそ
自分の心に耳を傾けることができるのである。

そして、
そこで、はじめて
「自分を信じる」ということの意味が分かるはずである。

そして、はじめて
人は立ち直れる。