「過ちは 繰返しませぬから」の碑文を考える

この時期になると、
ついつい考えてしまう
広島平和記念公園内に設置されている慰霊碑に
刻まれている碑文、
そこにはこう書かれている。

「安らかに眠って下さい 過ちは 繰返しませぬから」

この碑文について
「『過ち』は誰が犯したものであるか」ということは、
建立以前から議論があったらしい。

1952年8月2日、広島議会において
浜井市長は
「原爆慰霊碑文の『過ち』とは
戦争という人類の破滅と
文明の破壊を意味している」と答弁したそうだ。

日本語は主語がない場合が多い。
たとえば、川端康成の名作「雪国」の冒頭文。

「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。」

この文章には主語がない。
海外ではこの文章をどう訳すのだろうかと不思議に思う。
英語などをみても、主語と述語はセットである。
しかし日本語は主語がないことで
「誰が」「どうした」ということより
「どういう状態か」ということが重要となる。

そのことを考えると、
広島平和記念公園内の碑文については
「誰が」過ちを犯したか、
ということより、
原爆が投下された「状態」が過ちなのである
と理解した方が適切ではないだろうか。

もし、これが
民間人の大量殺傷したアメリカの過ち
とした場合、この碑文は
日本がアメリカの過ちを訴える内容となり、
原爆の非人間性を世界共通の問題として
浮揚させることはできなくなる。

どこかの某国のように
延々とアメリカの戦争犯罪を訴える碑文となる。

しかし、それでは、
原爆を世界共通の問題として
多くの人の共感をえることはできないのではないだろうか。

日本とアメリカの関係を超えて
原爆そのものの「過ち」を訴えることで
初めて、世界の人々の理解と共感を
得るのことができたのではないか。

そう考えると
この碑文は日本語の特質を活かした
日本人の知恵ある碑文として
誇りにしていいと思う。

聖書を読む①

先日、小城市に住む実業家Aさんと話した時のこと。
Aさんは決してクリスチャンではないが、
有神論者ではある。

「田中さん、聖書って面白いですよね。」

「まあ、私は文庫版を持ち歩いて時折読んでますが」

「キリストが十字架にあるとき、
左右にそれぞれ1人ずつ、
磔にされた罪人がいたでしょう。」

「そうですね」

「そのうち一人はキリストに罵声を浴びせ、
もう一人はキリストとともにいることを望みましたよね」

「・・・・」

「不思議ですよね。
キリストとともにあって、一人はキリストを侮辱し
もう一人はキリストと共にあることを望んだわけですから」

Aさんが言わんとすることはおそらくこうだ。
ある事象があり、あるいはある人物とともにあって
その際に人が取り得る態度は自由ではあるものの
対極的な2つの態度が想定される。

一つは否定的な態度。
もう一つは受け入れるという態度。

しかし、おそらく
キリストを受け入れ、
キリストと共にあることを望んだ罪人は
キリストが
「あなたはわたしとともに今日、一緒に楽園にいる」
と語ったように、罪から救われ、
神の国に引き上げられただろう。

アウシュビッツ強制収容所から生還し、
後に「夜と霧」を著述した精神科医
ビクトル・E・フランクルは
どのような状況下においても
人は価値ある生を生きることができる、
と主張した。

そのうちの一つに
「態度価値」を挙げている。

どれほど絶望的状況下にあっても
死の間際にあっても、
その状況にどのような態度をとるか、
そこにも生きることの価値はあるというのだ。
それをフランクルは「態度価値」と呼んだ。

聖書は世界的ベストセラーだ。
クリスチャンでなくとも、
その内容はなにかしら
心の琴線にふれる箇所がある。

かつて、太宰治も芥川龍之介も
聖書には深く傾倒していった。

聖書は多様な読み方がある。
それぞれの読み方は自由であり、
それでも読む人の心に響くものがある。
だからこそ、
聖書はクリスチャンであるなしを問わず、
多くの人に読まれるのであろう。

高校野球大会歌「栄冠は君に輝く」の作詞、加賀大介さんのこと

この時期、地元の声援を受けて出場する
高校球児の活躍が楽しみのひとつになる。
高校野球でどうしても思い出すのが
大会歌「栄冠は君に輝く」の作詞家、加賀大介さんのことだ。

高校野球大会歌は1948年、朝日新聞社の大会歌詞募集で
加賀さんは後に妻となる中村道子さんの名を借りて
応募し、見事、5,252篇中の1位となった。

賞金は当時の金額で5万円、
当時の公務員給与の10倍以上だったらしい。

加賀さんはもともと野球少年で
16歳の時、練習中足を怪我し、
その怪我が悪化し、右足を切断した。

野球の夢は断たれ、
その後、加賀さんは詩作にふけるようになり、
プロの文筆家となった。

そうした中、
朝日新聞社の大会歌詞募集を知り、
後に妻となる中村道子さんの名で応募、
見事、「栄冠」を勝ち取ったのである。

加賀さんは
自分の作詞であることを伏せていたのだが、
1968年に真相を明かし、
その後は「加賀大介作詞・古関裕而作曲」と
表記されるようになった。

加賀さんは甲子園で
高校野球を見ることを夢見ていたが
その夢を果たすことなく、他界した。

野球少年であった加賀さんは
足を切断した時に
夢を断たれた。

しかし、詩作に耽け、
高校野球の大会歌を作詞することで
加賀さんは高校野球に永遠に名を残すことになった。

加賀さんの野球への情熱は
高校野球への夢は
別の形で実現したのである。

人生は決して直線的に進まない。
流れがよどめば、
別の道を見出し、
新たな流れをつくりだす。
そして宇宙は必ず新たな接点を見つけ出すのだ。