禅の公案はまさしく禅問答、
わけがわからない。

有名な公案で「隻手の音声」というのがある。
これは片手で音が出るか
(つまり両手で拍手するような音が出るか)
という問いの答えは「無」である。

このような問答を修行僧は延々と続けるのである。

さて、禅の公案のひとつに
「牛が目の前を通っている。
頭が見えたが、しっぽは見えなくなった。
なぜか?」
というのがある。

答えは「自分が牛になったから」

こうなるとますますわけがわからなくなるが、
この禅の思想に「私とは何か」という根源的な問いが含まれていると
ユング心理学の大家、河合隼雄氏は論考している。

河合隼雄氏はここでいう「牛」とは本質的な「自己」のことであるという。

禅の悟りに至るプロセスを10段階にわけて
比喩的に説明されるものに
十牧図というものがある。

簡単にいうとこうである。

牛を飼いならす少年がいる。
その少年の前から牛がいなくなった。
牛を探す少年の前に牛の足跡がある。
少年は牛を追いかけ
牛を発見する。
牛を手なずけようとするが
牛は暴れて、なすすべがない。
しかし、なんとか手なずけて
少年は牛の上に乗り、
旅を続ける。
そのうち少年は老人と出会う。
そして、すべてが調和した世界を体感する。
そしてそれらの全てが一体化し、無の境地が生まれる
(これが悟りの境地であるという)

ここで終わりかというとそうではなく、
そのあと、また少年と老人が出会うプロセスに移行するのである。

つまりすべてが一体化した世界では
無になり、また、新たなスタートが始まるというわけである。

河合隼雄氏はこの「牛」こそ
本来の「私」の象徴であるという。

私は「自分が何者か」わからず、
自己探求の旅に出る。
そして、自己を発見し、
なんとか本来の自分になろうとするが
なかなかうまくいかない。
なんとか「本来の自己」となったとき
調和した世界を体感する。

しかし、それはまた
「無」の世界にいたるのである。
このことが意味するのは
河合隼雄氏にいわせると
「目標の自分があるからこそ
それに向かえるのであるが
その自分と同一化したとき
無になってしまう」ということである。

そこで再度、世界を分割し、
また、「牛」(=私)を探す旅に出るのである。

河合隼雄氏は
私たちはこうしたループを繰り返しているという。
つまり言外に「輪廻転生」を繰り返しているといってもいるのである。
もちろん、河合隼雄氏はそこまでははっきりといってないが。
しかし、実質上、「輪廻転生」のことである。

河合隼雄氏のこの死生観には影響された。
今の私の死生観はこの河合隼雄氏のそれと一致している。

おそらく、私たちは輪廻転生を繰り返し、
「自分ではない自分」として誕生し、
自己探求の旅に出て、
そこで自己創造を繰り返しているのだ。

つまり自己創造と自己探求こそ、
私たちの生の意味であり、意義であろう。

そうであるからこそ、
それぞれの個人に人生の課題があるはずであり
そのための生だと考えられるのである。

そしてまた、
その生を完成させるための知恵は組み込まれているはずだと考えている。
それがDNA(=Divine Natural Awareness)「聖なる自然の知恵」であろう。

だからこそ、
自分の心に問いかけることが大切なのだ。
深く、その奥底にある心の声に耳を傾けることが大切なのだ。

 

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