「禅」の現代的意義を考える

【「禅」の現代的意義を考える】

私はクリスチャンですが、
キリスト教はもちろんのこと
仏教では浄土宗、浄土真宗
真言宗、臨済宗、曹洞宗、黄檗宗、
仏教以外では天理教など
幅広く宗教の説法は聞いています。

禅宗の流れを組む宗派は
臨済宗、曹洞宗、黄檗宗の3派があり、
そのどれもが座禅や禅問答を通して
悟りに向かうことを求めています。

禅問答といえば、何やら「わけのわからない」
どう答えていいのかわからない、
といったイメージが
世間一般では強いでしょう。

禅問答の公案は主に
江戸時代中期の禅僧、
白隠和尚が考え出したものです。

禅問答の公案で有名なものに、
「隻手の音声」というのがあります。
隻手とは、片手のことです。
両手では手を打って音を出せますが、
片手では、打つことが出来ません。
その片手の音をどう聴くのでしょうか。

しかし、修行僧は、住職のその問いに返答しなければなりません。
答えは「無」です。

このように、禅問答にはどう答えていいのかわからない公案が多く、
つまり、「問い」そのものに矛盾が孕んでいて、
答える側は、どうにも答えようがない状況におかれるのです。

しかし、この禅問答、どこか現代的かな?とも思うのです。
私たちが状況から問われている「問い」には
常に矛盾が含まれていて、
それゆえ、「答え」を出すのにも悩んでしまうことが多いのです。
もともと人生そのものが不条理に満ちてますが(笑)

たとえば、「消費税は上げなければ国の財政は成り立っていかない」
しかし、「消費税を上げると景気は悪くなる」とか、
「浮気はしたいけど、見つかったらやばいよね」とか(笑)

私たちが状況から問われている「問い」の内容は
常に矛盾をはらんでいて、
それゆえ、
ダブルバインド(二重拘束)の状態に置かれてしまうのです。

実はここに「禅」のもつ現代的意義があるように思えるのです。
禅問答の「問い」にこたえようとすると、
これまでの私たちのものの見方や考え方から、
いったんワープして、別の高い次元から見ることが求められます。

そうであるからこそ、
私たちの日常が、実は「矛盾にはらんだ問い」に常に問われており、
その結果、私たちの思考はダブルバインド(二重拘束)の状態に置かれ
悩んでしまうことになるのです。

その状態から、別の突破口を見出そうとすれば、
いったん、これまでの思考やモノの見方から解き放たれ、
ワープして、別の高い次元でモノをみる、という視点が必要になります。

それが「禅」の現代的意義のように思えます。

幸福な人生への再スタート術⑤~深く、自己の内部へ・・~

【幸福な人生への再スタート術⑤】
~深く、自己の内部へ・・~

「ひとり」を勘違いしていた、
とても幼稚で悲しい誤読をしていた。
それは(もうひとつの)いちばん最初に訪れる絶望で、
いちばん最後におとずれる、鮮しくて眩ゆい希望だ
(井上法子 歌人)

井上法子さんは東大文学部博士課程在学中(もう修了したかな?)の新進気鋭の歌人です。

ひとりであること、
孤独であるということ。
その入り口は絶望かもしれないが、
その出口は希望であるということ。

これはたぶん、真実でしょう。

私の場合は半年間、1日誰とも話さない日々をおくりました(苦笑)。

最初は、深い孤独感に絶望的な気持ちになりますが、
そのうち、だんだんと自分自身のことを深く考えていくようになります。

これまでの自分のこと。
これからの自分のこと。

最初は腹立たしいことばかり頭をよぎります。
「あの時別の選択していれば」とか
「あの野郎!!」(笑)とか・・・
しかし、そうした悔恨や憎悪の感情は
かえって自分を苦しめることになります。
そういう負の感情そのものが自分の重荷になってくる。
すると、できる限り、無駄な感情はそぎ落としていく、という
感情のデドックスみたいなことを自分でやっていくわけです。

無駄な感情をそぎ落としていくと何が残るか。
私の場合は「愛している人を愛する」という感情のみが残りました。
それだけが自分の心を満たしてくれる感情なんだということに気が付きます。
「愛している人を愛する」というだけで感情は満たされるわけです。
というより、孤独の中では、それが心の支えになっていたといっていいでしょう。

恋歌はそのころしたためたものです。
たとえ、相手からの返歌はなくても・・・

そして、それでも続く孤独な状況の中では、
さらに、自分自身の内部に深く沈降していきます。
すると、自分の中にある余計なもの、
腐った部分をどんどんそぎ落としていって、
自分のコアな部分、自分の核心に向かうようになっていきます。

自分自身の核心、そこにたどり着くと、
これから自分が「何をなすべきか」
「なぜ、いまこの状況にあるのか」
そういったことの意味が見えてきます。
自分自身の存在意義をはっきりと自覚するようになります。

自分の「核心」にたどり着くことで
自分自身の存在意義を「確信」する、ということでしょうか。

私の場合は2つ、これからの自分の存在意義を明確に意識しました。

孤独の中で、自分自身の核心にぎりぎりまで沈降していくことによって、はじめて、自分の存在意義やこれからの人生の意味は見えてきます。

つまり、それまでの「孤独」による「絶望感」は、
自己の内部に沈降し、
自己の「核心」に近づくことで、
自分の存在意義を「確信」するための
入り口だったのです。

そして、その「確信」は「希望」に変わります。

「孤独」はそれ自体「絶望感」を伴いますが、
しかし、それは自分の余計な枝葉をそぎ落とし、
自己の「核心」に近づき、
そこから「希望」という出口に向かう
自分で掘り進めなければならない暗い坑道でもあるのです。

写真の花は「ストック」
花言葉は「愛の絆・永遠の愛・見つめる未来」

アメリカの良心、ジョン・マケイン上院議員

【もし、ジョン・マケインが米大統領になっていたら・・・】

マケインといえば共和党から選出されオバマとの大統領選を戦い、敗北した上院議員である。

マケインはベトナム戦争に参戦し、捕虜となり、拷問にも耐え、5年間の捕虜生活をおくっている。その時の拷問で膝や腕に障害が残った。
その後政治家となって、ベトナムとの国交正常化に尽力している。

ブッシュ政権時にはテロリストへの拷問に対しては
自ら拷問の経験者として
「米軍による拷問は自由と民主というアメリカの大義を傷つけるばかりか、敵の捕虜となった米兵の身も危険にする」と反対した。
(トランプ氏は拷問賛成してます)

また、移民への締め付けを進める政策に対しては「私たちも移民の子孫ではないか」として反対した。(トランプ氏とはまったく異なりますね)

そして、マザーテレサの孤児院にいたバングラデシュの少女を引き取り、自分の子供として育て上げた。

ところが、このことがのちにブッシュとの共和党での大統領予備選で恰好の攻撃材料とされた。
ブッシュ陣営曰く「マケインは黒人の女性はらませ、その子を育てている」と・・・

このとき、マケインがブッシュを破り、共和党から選出され、ゴア氏との大統領選に勝利していたら、イラク戦争もなかっただろう。

マケインが体現している政治姿勢は
「古き良き時代の自由と平等の国、アメリカ」である。

トランプ新大統領が唱える
「アメリカを偉大な国にする」という言葉には
「自由と平等の国、アメリカ」の精神はみられない。

マケインが大統領になってくれてたら・・・・

でも、それでもマケインは私の中では
最も尊敬する政治家であり、
私の中の☆!!である。