自らの心のうちに問いかける

自分の心に問いかけてみる。
外界との接触を断って、心のうちの奥深くまで暗い中を潜っていく。
深く、心のひだの中を奥深く。
誰の生命も生まれてきた意味があり、価値があると考える。

答えはあなたの心の中にある。
「人生に問いかけてはならない。問いかけているのは人生であり、答えるのはあなただ」
アウシュビッツから生還した精神科医ヴィクトール・フランクルの言葉だ。

これまでの人生の軌跡は、
あなたに生きる意味を問いかけている。
「自分の生きる意味は?生きる価値は?」

だれもがひとりになったとき、ふっと頭をよぎる問い。

「全にして一、一にして全」
聖書に書かれている神の存在だ。
これを生命と置き換えても通じるように思う。

それぞれの存在は個別でありながら、
全体としてつながっている。
このような考えはあらゆる宗教で説かれている。

自分が生きている意味を
自分の生きる価値をもう一度みつめること。

それこそが人が本当に生きていくうえでの
人生を再出発するうえでの出発点だと思う。




思考する自由

コロナの影響で外出する機会も減少したかもしれない。
仕事で他県に行くことはあっても、「不要不急の外出を控えよう」といわれては、やはり外出する気分は減退する。
しかし、家の中にあっても「思考する自由」は残される。
幸いにして、いまはインターネットで、思考する広がりは格段に広がった。

思考の自由、言葉、感性の広がり・・・

行動は制限されても、思考の広がりは制限されない。

インターネット上で思考の自由は広がる。

言葉、音楽、映像・・・・

「上質の普通」をつくり続けたい。








人生後半戦、あらためて生きる意味を考える

ふと、自分が生きる意味について考える。
誰もがそうした考えに取りつかれたことはあると思う。

人生も後半に入ると、
親といえる人がだれもいなくなり、
自分もまた、死へと向かう生を生きることになる。

 

生命について考えてみる~全にして一、一にして全~

生命について考えてみる~全にして一、一にして全~

先日、「佐賀いのちを大切にする会」の会議に参加させていただきました。
11月に開催する講演会についての打ち合わせ。
最近、生命について考えることがしばしばあり、
宗教的な思索にふけってしまいます(笑)。

「全にして一、一にして全」という考えがあります。
聖書では神のことをこのように記しています。

「我は一にして全、全にして一。始祖にして究極、終わりにして始まりなり。」
この一文を生命にあてはめてみるとひとつのイメージが沸き上がります。

もしかすると、
個々の生命体は水の一滴のようなものであり、
生を終えると、大河の中の水、
すなわち大きな生命体の中にもどる、といったものなのかもということ。
すべての生命は個別でありながらも
実は、大きな生命の一滴であり、
いずれ、その大きな生命体にもどっていくというイメージ。

すべての生命は、
ひとつの大きな生命体の一滴であるとすれば、
他のすべての生命を大切にする、という考えに至ります。

個々の生命体が個別であっても
すべてが「一にして全」であれば、
大きな生命体からすれば、
他の個を傷つけることは
自分自身を傷つけることであり、
よって、すべての生命体を尊重する、という結論にいきつきます。

だから、殺生はするな、ということでしょう。

いまのところ、
自分の生命観は以上のようなものです。






 

自己責任論を考える

自己責任論。
私もその立場にいる。
しかし、一般的にある自己責任論にはなぜか違和感がある。

いわゆる一般的に・・・
「そりゃ、お前の責任だろ?」
よくそう言う人がいる。
それが仕事の場面ではいいかもしれない。
しかし、その人の人生の場面ではどうだろう?

どこか相手を突き放した感があるのだ。

そしてそういう人ほど次に続く言葉が
「それが常識だろ?」となる。

これでほとんどが思考停止に陥るのだ。
なにか違う。
そうではないのでは???

これは私自身の宗教観にもよるのだが、
だれもが、それぞれの意味、意義をもって生まれてきた生命であるという人間観に基づいている。

その認識に立てば
それぞれの個人がより自分の心の深い部分で
自分と向き合い、
「自分とは何か」ということを突き詰めて考えていけば
自ずと答えは出るものという、結論に至る。

とすれば、
自己責任論は
少なくとも私にとっては
「それはあなた自身で答えは出せるし、
あなたにはあなたの生の意味があり、
生きる価値があるのだ」という意味である。

だから、だれしもが
自己治癒力、自己再生力があり、
それを信じることが
自己責任論につながる。

人はだれしもがそれぞれの生の意味をもっているものだ。
それが私の自己責任論である。