50代後半の「希望」

【50代後半になって思うこと・・】

50代後半になってつくづく思うのは
やっぱり「希望って大事だよね」ということ。
若い頃よりはるかに今の方が「希望は大事」と思える。
月並みだが「愛と希望」とでもいおうか・・・

まあ、6か月間誰とも話せず、「孤独と絶望」の日々を過ごした経験があるため、その対極にある価値、「愛と希望」が生きていくための精神的支柱になることを身に染みてわかっているのだが。

しかし、50代後半の人生に、「愛と希望」はつくづく大事だと思う。
「希望」をもって日々、ちょっとだけ努力してみる。
ちょっとだけ、自分の人生をクリエイティブなものにしていく。
それが少しだけ明日をよくしていく。

たぶん、そういうプラスのスパイラルこそが、大事なんだろうな・・・

だから、苦しい時でも、ちょっとだけ努力してみる。
希望をもつ。
なんとなく、その一歩一歩が楽しく思える。
そんなことの繰り返し。

海のさざ波。
絶えず繰り返される差異と反復。
同じことが繰り返されるようで、
ひとつひとつの波が生み出す差異。
その微妙な差異が
明日の希望につながる差異であるのならば
それこそがクリエイティブな人生につながるように思える。

50代後半になって
「希望」のもつ大切さがわかるようになった。

宗教的視座を持つ②

「後半の人生には宗教が必要である」
こういったのはユング心理学の大家、河合隼雄氏である。

河合氏がいうことをシンプルに言えば、
「人生後半は死に向かう生を生きる。だからこそ宗教が必要になる」ということらしい。

確かに、私も両親の死後、自身の「死」も意識するようになった。
「死」という視点に立った時に見えてくる
現在の私の「生」もまた意識するようになったといえる。
「死」を意識することで改めて「生」が浮き彫りになってくるという構図である。

また一方で、宗教的視座をもつことで
これまでの「生」を俯瞰してみることも大切になってくる。
それは単に過去を振り返るということではなく、
これまでの「生」のそれぞれの出来事の意味を
「自分にとってそれはどういう意味だったのか」ということを
俯瞰してみることが大切である、ということである。

それはたとえてみれば、
無秩序のようにも見える星の配列を
意味ある「星座」として、
再構築していく思考プロセスともいえよう。

自身にこれまでおきた数々の出来事。
一見、無関係に思える出来事の時間的連鎖が
自分にとって「意味ある連なり」として見えたとき、
これからの人生の指針となる「星座」がみえてくる。

そのとき、はじめて
自分の「生の意味」も理解できるようになるのではないだろうか。

ややもすると
自分にとって「辛かった出来事」こそ
実は、大きな意味をもつものであることも多い。
一見「不幸な出来事」にもその奥底に何らかの意味があり、
それを自分にとって「どのような意味や意義があったのだろうか」と
問いかけ、自分なりの意味を理解するとき、
「不幸な出来事」は「不幸」ではなくなり、
「意味あるもの」として、再び自分の中で生成されてくる。

そうすることで
自分の「生」の意味をより深くとらえることができるだろう。



ディープな話をしてみる

自分を語ってみる。
深く、痛みも伴いながら・・
それでも赤裸々に。
ただのモノローグ(独白)なのかもしれない。
しかし、深く掘り下げていったその先に
他者とつながる水脈があるかもしれない。
そしてそれはいつか他者ともダイアローグ(対話)につながるのだ。

ときおり
クライアントと深い話になることがある。
発端はいつも自分が
自分のことを語ることから、である。
これまでに自分の身に起こった数々のこと。
それを赤裸々に語る。

しかし、なぜか、それで
拒否されることはない 。
それよりもそれが発端になり、
お互いに深い話になることの方が多い。

おそらくだれもが深いところで
理解しあいたいのだ。

自分を語ることは
それが深い部分であればあるほど
痛みを伴うことが多い。

過去のすでにふさぎかけたかさぶたを
かきむしるように。
うっすらとまた血がにじむように。
自分をみつめ、語ることは
軽い痛みを伴うものだ。

しかし、痛みのない人生などない。
だからこそ、その痛みとともに
誰かとつながりたいのだ。
深く理解しあいたいのだ。

モノローグ(独白)から
ダイアローグ(対話)へ

私のブログはおそらくそうしたものだろう。