私の読書遍歴:西田幾多郎「善の研究」、その「罪」と「救い」

罪を知らざる者は
真に神の愛を知ることはできない
(西田幾多郎)

西田幾多郎といえば
名著「善の研究」の著者。
西田氏は西洋哲学を
古代ギリシャから現代まで
彼なりのやり方で咀嚼し
そのうえでそれに拮抗しうるだけの
「日本の哲学」を生み出そうとした。

しかし、実生活では
彼の家庭は決して幸福なものではなかった。
子ども8人のうち、5人を亡くし、
病気の妻を5年間看病したあげくに失うという
人生の深い悲哀にくれた。

「善の研究」を読むとわかるのだが
ぎりぎりの思推をさらに詰めていきながら、
まるで徹底的に打ち鍛えられた
鋭利な刀のような輝きをもった
言説が綴られている。

「純粋経験」という独自の概念を打ち出しながらも
最終的に宗教観にたどり着く。

西田氏にとっての罪とはなんだろうか。
おそらく彼は
子どもや妻を失った深い悲哀と同時に
家族を幸福にできなかったことへの
負い目、罪悪感を有していたのだろう。

しかし、その負い目も
決して解決できるものではなく、
それゆえ、悶々としながら
永遠に負わなければならない罪の重さを
自身、日々に感じざるを得なかっただろう。

贖罪できるものではないがゆえ、
救いを、神に希求せざるを得なかった、
それが西田氏の心境ではなかっただろうか。

西田氏の哲学は「苦悩の哲学」とも言われる。
ぎりぎりまで思推を詰めていきながらも
救われることのない罪の意識。
そのことが、
西田氏が神を求めざるを
得なかった理由のように思える。

「善の研究」は日本哲学の金字塔である。
と同時に、思考し続けることの崇高さをも教えてくれる。

1年が過ぎて・・・

凧が一番高く上がるのは、
風に向かっている時である。
風に流されている時ではない。
(ウィンストン・チャーチル)

昨年9月6日に佐賀に戻ってきて1年が過ぎた。
この1年間を振り返ると、
まさしく上のチャーチルの言葉に集約できるだろう。

逆風である。
とはいえ、高度は不十分ながら、上昇基調にある。

心痛することは山ほどある。
しかしながら、
「生きている」ことが面白くなった。

おそらく、不幸なことでも
そこに意義を見いだせることに
なったからであろう。

これは自論だが、
不幸な出来事を、
不幸なままに解釈していることが
最も不幸なことだと思う。

人生に不幸なアクシデントはつきものだ。
しかし、そこには必ず別の意義があるはずだ。
それに気づけば、
不幸は不幸ではなくなる。

先日、不思議なことが起きた。
熊本で打ち合わせのアポが入っていたが、
先方の都合でドタキャンになってしまった。
楽しみにしていたので凹んだが
翌日、クルマのタイヤがパンクし、
もし、熊本出張中、
高速道路でパンクしようものなら、
大事故にもつながりかねなかったことを考えると
命拾いをした、ともいえるのだ。

「護られている」そういう感覚に包まれた。
主イエスと聖母マリアに、である。

どんなことにも意義があり、
意味がある。
それは決して
楽しいことではなく、
辛いことであってもだ。

そう考えると、
生きることは俄然、有意義なものになる。
それがたとえ、つらいことであっても。

まだまだ逆風だ。
しかし、だからこそ凧は高く舞い上がるのである。

 

私の読書遍歴・・「蹴りたい背中」(綿谷りさ)

認めてほしい。
許してほしい。
櫛にからまった髪の毛を
一本一本取り除くように、
私の心にからみつく黒い筋を
指でつまみ取ってごみ箱に捨ててほしい。
人にしてほしいことばっかりなんだ。
人にやってあげたいことなんか
何一つ思い浮かばないくせに

綿谷りさが19歳で芥川賞を
受賞した小説「蹴りたい背中」の中の一文。
19歳の少女の感受性が
大人になった今でも私の胸をうつ。

だれもが人に理解されることを望む。
理解されたいと望み、
言葉を紡ぎ、語り、
誰かと感情を共有し、
共感してほしいと願う。

だが、時として、
人からの無理解に悶々とし、
あるいは、人への理解はおろそかになり、
ゴツゴツとした人間関係の軋轢に
苛まされる。

いつしかそれは
「櫛にからまった髪の毛」のように
心に絡まっていく。

そして、
「一本一本取り除くように、
私の心にからみつく黒い筋を
指でつまみ取ってごみ箱に捨ててほしい」とも願う。

しかし、
それでも人は誰かと感情を共有し、
共感したいと願い、
あるいは同情し、喜び、涙する。

いつだって人は
心のつながりを求めている。

多くの愛憎を繰り返しつつ、
そのなかでも人は
愛し、愛されることを
望んでいるのだ。