人との接し方、男女の違いについての一考察

最近、人との接し方について、男女間で違いがあることがわかってきた。
男性の場合、どうしても「自分を優位におきたい」という気持ちが強い。
一方、女性は「自分のわがままをうけいれてね」という感じなのである。

たとえば、弁護士の方であれば、このようなケースに遭遇したこともあるだろうが、刑事事件で被疑者の方(男性)が自分が相談している立場にあるにもかかわらず、「オレがあんたに依頼してるんだから」という妙に上から目線で高圧的な態度にでているとか・・・・
相談している立場でありながら、男性の場合、なぜか、「オレが依頼してやっている」という妙に自分を優位な立場に置きたがるのである。

一方、女性の方は「ねえ、これもやってぇ」みたいに、けっこう、 次々にいろんなことを頼みたがることが多い。
いいかえれば、「自分のわがままを受け入れてね」みたいな感じなのである。
時折「えっ、そこまでやるの?」みたいなこともあるが、大体が細々とした事でそれほど 手間がかかるわけではない 。

どちらかといえば女性の方が「何をやってほしいのか」明確である場合が多い。
別な言い方をすれば、「やってほしい」ことに素直でもあるのでこちらとしてはわかりやすいのである。
一方、男性の場合、「自分を優位に置きたがる」ために 、妙に 素直でない場合が多い。だからまわりくどくなってしまうのである。

私自身は、相手から要求されていることに、できるだけ、対応したいので、素直に「これをやってほしい」と率直にいってくれた方がわかりやすいのである。

最近、こういう人との接し方について、男女の違いがあることに気が付いてきた。

少しは大人になったのかもしれない(笑)

禅とユング心理学

禅の公案はまさしく禅問答、
わけがわからない。

有名な公案で「隻手の音声」というのがある。
これは片手で音が出るか
(つまり両手で拍手するような音が出るか)
という問いの答えは「無」である。

このような問答を修行僧は延々と続けるのである。

さて、禅の公案のひとつに
「牛が目の前を通っている。
頭が見えたが、しっぽは見えなくなった。
なぜか?」
というのがある。

答えは「自分が牛になったから」

こうなるとますますわけがわからなくなるが、
この禅の思想に「私とは何か」という根源的な問いが含まれていると
ユング心理学の大家、河合隼雄氏は論考している。

河合隼雄氏はここでいう「牛」とは本質的な「自己」のことであるという。

禅の悟りに至るプロセスを10段階にわけて
比喩的に説明されるものに
十牧図というものがある。

簡単にいうとこうである。

牛を飼いならす少年がいる。
その少年の前から牛がいなくなった。
牛を探す少年の前に牛の足跡がある。
少年は牛を追いかけ
牛を発見する。
牛を手なずけようとするが
牛は暴れて、なすすべがない。
しかし、なんとか手なずけて
少年は牛の上に乗り、
旅を続ける。
そのうち少年は老人と出会う。
そして、すべてが調和した世界を体感する。
そしてそれらの全てが一体化し、無の境地が生まれる
(これが悟りの境地であるという)

ここで終わりかというとそうではなく、
そのあと、また少年と老人が出会うプロセスに移行するのである。

つまりすべてが一体化した世界では
無になり、また、新たなスタートが始まるというわけである。

河合隼雄氏はこの「牛」こそ
本来の「私」の象徴であるという。

私は「自分が何者か」わからず、
自己探求の旅に出る。
そして、自己を発見し、
なんとか本来の自分になろうとするが
なかなかうまくいかない。
なんとか「本来の自己」となったとき
調和した世界を体感する。

しかし、それはまた
「無」の世界にいたるのである。
このことが意味するのは
河合隼雄氏にいわせると
「目標の自分があるからこそ
それに向かえるのであるが
その自分と同一化したとき
無になってしまう」ということである。

そこで再度、世界を分割し、
また、「牛」(=私)を探す旅に出るのである。

河合隼雄氏は
私たちはこうしたループを繰り返しているという。
つまり言外に「輪廻転生」を繰り返しているといってもいるのである。
もちろん、河合隼雄氏はそこまでははっきりといってないが。
しかし、実質上、「輪廻転生」のことである。

河合隼雄氏のこの死生観には影響された。
今の私の死生観はこの河合隼雄氏のそれと一致している。

おそらく、私たちは輪廻転生を繰り返し、
「自分ではない自分」として誕生し、
自己探求の旅に出て、
そこで自己創造を繰り返しているのだ。

つまり自己創造と自己探求こそ、
私たちの生の意味であり、意義であろう。

そうであるからこそ、
それぞれの個人に人生の課題があるはずであり
そのための生だと考えられるのである。

そしてまた、
その生を完成させるための知恵は組み込まれているはずだと考えている。
それがDNA(=Divine Natural Awareness)「聖なる自然の知恵」であろう。

だからこそ、
自分の心に問いかけることが大切なのだ。
深く、その奥底にある心の声に耳を傾けることが大切なのだ。

 

人が立ち直るということ・・・・

先日、40代のある男性と出会った。
高校の後輩にあたり、
某国立大学を卒業後、
現在はアルバイトで生計をたて、独身らしい。

これまでの職歴を聞くと
能力はあるようだが
将来設計がみえてないようでもある。

人生は必ずしもうまくいくわけではない。
どちらかといえば
不条理でさえもある。

いささか、不条理で
「自分にどうしてこんなことが?!」と
思えるようなことでも
そこで答えを出すのは自分自身でもある。

フランクル流に言えば
「人生に問うてはならない。
人生から問われているのはあなた自身だ」
ということであろう。

厳しいようだが、
実はこれはどれほど厳しい現実があろうとも
それに対してどういう答えを出すのかは
あなた自身の自由でもある、ということである。

つまり「厳しい現実」を前にしても
それに対する考え、態度については
選択の自由が残されているのだ。

それがたとえアウシュビッツであったとしても。

では、「あなたの責任であり、あなたの選択の自由である」として
はたして、それをいう当人がどういうつもりで
相手にいっているのか?

つまり、そういうことで
相手へのかかわりを避け、
単純に言えば
相手を言い負かしたいだけの方便になっているのが
実態である。

それは違うとして、
しかし、
「あなたの責任であり、あなたの選択の自由である」という命題は
ある可能性を示してもいるのである。

私自身は
人は自己治癒能力を有しており、
つまり、自分自身の心の深部に立ち返れば
いずれ、その人の人生は立ち直れるというスタンスにいる。

「あなたの責任であり、あなたの選択の自由である」
ということは私にとっては
誰もがコアなる自分自身に立ち返れば
そこで、最善の方策は
自分自身がすでに答えを有している、
という別の意味も含んでいると考えるのである。

それを私はDNA
(=Divine Natural Awareness 「聖なる自然の知恵」)と呼んでいる。

その人の心にある「聖なる知恵」。
おそらく、だれもがそうしたDNAを有しているはずである。

自分自身に問いかけ
外界の事象にとらわれることなく
自分の心に対峙すれば
必ず自分の心は答えてくれるはずである。

孤独は決して苦痛ではない。
いや、孤独だからこそ
自分の心に耳を傾けることができるのである。

そして、
そこで、はじめて
「自分を信じる」ということの意味が分かるはずである。

そして、はじめて
人は立ち直れる。