必要とされること・・・

何十億の人に、かけがえのない存在だと、
言ってもらわなくてもいいのだ。
それはたった一人からでいい。
「あなたは、わたしにとって、
なくてはならない存在なのだ」と言われたら、
もうそれだけで
喜んで生きていけるのではないだろうか。
(三浦綾子)

必要とされ、感謝されること。

人が自身の存在価値を
感じ取れる瞬間があるとすれば
この一文につきるだろう。

仕事に評価は必要だ。
しかし、評価されることは相対的なものだ。
自分より評価が高い人がいれば
そちらが選択される。

そしてまた、
人は評価されることを望む。
しかし、
そのことを第一義的にとらえると
本来の存在意義を見失う。

一方、必要とされることは
絶対的なものだ。
評価とは異なるものさしが存在する。

この1年間
自分が必要とされることを
第一義としてやってきた。
もちろん仕事も
当然、評価されているし
その内容も決して悪いわけではない。

しかし、
まずは自分が必要とされ
感謝してもらえることを
第一義として取り組んできた。

幸い、
いろんな方から共同事業の
お誘いも受けるようになった。

ただ、自分が必要とされることに
軸足を置くことにかわりはない。

また、今後、自分が取り組むべきことも
明確にしている。

ひとつは地方の中小企業の活性化である。
そして、もうひとつは
「罪からの救い」だ。

このふたつの分野で一隅を照らすことができれば
それで本望だろう。

「痛み」は比較できない・・・

人間の苦悩は比較できないものです。
それも、苦悩がひとりの人間の苦悩であること、
苦悩がその人の苦悩であることが、
苦悩の本質に属しているからなのです。
苦悩の「大きさ」は、
苦悩しているもの、
つまりその人しだいで決まるものなのです。
~「それでも人生にイエスという」(V・E・フランクル)~

ここでいう「苦悩」を
「痛み」と変えても主旨は通じるだろう。

いろんな人から「悩み」を聞く機会も増えた。
曰く「人間関係がやっかいで・・・」
曰く「仕事がいきづまっていて・・・」

そういう悩みを聞くたびに
「少なくともオレよりましだろっ!!」
と言いたくなるのである(笑)

仕事はマイナススタート、
人間関係は滅茶苦茶。
どう考えたって、
悩みを打ち明けてる方が
私よりもマシなのである。

とはいえ、
歯痛に悩んでいる人にとって
「複雑骨折よりマシだろ」といっても
「痛み」は「痛み」なのである。

「痛み」は比較しても無意味なのである。
特に心の痛みは。

おそらく、痛みを理解してあげることが大切なのだろう。
自慢ではないが、
私はうんざりするくらい
満身創痍である(笑)
しかし、またそれだけ
人の痛みがわかるセンサーを
持ち得ているともいえる。

悩みを打ち明ける人は
つまり「心の痛み」を理解してほしいのだ。
そこに共感してほしいのである。
「わかってほしい」のである。

ただ、もし人が
「痛み」から救われるとすれば
あるいは救われたいと願うのならば・・・
そこに「神の愛」があれば、
救われるのかもしれない。

1年が過ぎて・・・

凧が一番高く上がるのは、
風に向かっている時である。
風に流されている時ではない。
(ウィンストン・チャーチル)

昨年9月6日に佐賀に戻ってきて1年が過ぎた。
この1年間を振り返ると、
まさしく上のチャーチルの言葉に集約できるだろう。

逆風である。
とはいえ、高度は不十分ながら、上昇基調にある。

心痛することは山ほどある。
しかしながら、
「生きている」ことが面白くなった。

おそらく、不幸なことでも
そこに意義を見いだせることに
なったからであろう。

これは自論だが、
不幸な出来事を、
不幸なままに解釈していることが
最も不幸なことだと思う。

人生に不幸なアクシデントはつきものだ。
しかし、そこには必ず別の意義があるはずだ。
それに気づけば、
不幸は不幸ではなくなる。

先日、不思議なことが起きた。
熊本で打ち合わせのアポが入っていたが、
先方の都合でドタキャンになってしまった。
楽しみにしていたので凹んだが
翌日、クルマのタイヤがパンクし、
もし、熊本出張中、
高速道路でパンクしようものなら、
大事故にもつながりかねなかったことを考えると
命拾いをした、ともいえるのだ。

「護られている」そういう感覚に包まれた。
主イエスと聖母マリアに、である。

どんなことにも意義があり、
意味がある。
それは決して
楽しいことではなく、
辛いことであってもだ。

そう考えると、
生きることは俄然、有意義なものになる。
それがたとえ、つらいことであっても。

まだまだ逆風だ。
しかし、だからこそ凧は高く舞い上がるのである。