思考する自由

コロナの影響で外出する機会も減少したかもしれない。
仕事で他県に行くことはあっても、「不要不急の外出を控えよう」といわれては、やはり外出する気分は減退する。
しかし、家の中にあっても「思考する自由」は残される。
幸いにして、いまはインターネットで、思考する広がりは格段に広がった。

思考の自由、言葉、感性の広がり・・・

行動は制限されても、思考の広がりは制限されない。

インターネット上で思考の自由は広がる。

言葉、音楽、映像・・・・

「上質の普通」をつくり続けたい。








人生後半戦、あらためて生きる意味を考える

ふと、自分が生きる意味について考える。
誰もがそうした考えに取りつかれたことはあると思う。

人生も後半に入ると、
親といえる人がだれもいなくなり、
自分もまた、死へと向かう生を生きることになる。

 

生命について考えてみる~全にして一、一にして全~

生命について考えてみる~全にして一、一にして全~

先日、「佐賀いのちを大切にする会」の会議に参加させていただきました。
11月に開催する講演会についての打ち合わせ。
最近、生命について考えることがしばしばあり、
宗教的な思索にふけってしまいます(笑)。

「全にして一、一にして全」という考えがあります。
聖書では神のことをこのように記しています。

「我は一にして全、全にして一。始祖にして究極、終わりにして始まりなり。」
この一文を生命にあてはめてみるとひとつのイメージが沸き上がります。

もしかすると、
個々の生命体は水の一滴のようなものであり、
生を終えると、大河の中の水、
すなわち大きな生命体の中にもどる、といったものなのかもということ。
すべての生命は個別でありながらも
実は、大きな生命の一滴であり、
いずれ、その大きな生命体にもどっていくというイメージ。

すべての生命は、
ひとつの大きな生命体の一滴であるとすれば、
他のすべての生命を大切にする、という考えに至ります。

個々の生命体が個別であっても
すべてが「一にして全」であれば、
大きな生命体からすれば、
他の個を傷つけることは
自分自身を傷つけることであり、
よって、すべての生命体を尊重する、という結論にいきつきます。

だから、殺生はするな、ということでしょう。

いまのところ、
自分の生命観は以上のようなものです。