お盆に考える

もう、両親が他界して2年になる。
父が他界した翌年、後を追うようにして母が亡くなった。
そういうこともあり、
自身の死についても考えるようになった。
私自身の「死生観」は
「死」は「生の終わり」ではなく、
「新たな生への入り口」というイメージである。
それは仏教観に基づいたものだろう。

死生観をもつことは必然的に
宗教的視座をもつことになる。
宗教的思考とでも換言できよう。

死を考えることによって
現在の生がより一層際立ってくる。
お盆のこの時期、
少し、死生観を考えてもいいかもしれない。

50代後半の「希望」

【50代後半になって思うこと・・】

50代後半になってつくづく思うのは
やっぱり「希望って大事だよね」ということ。
若い頃よりはるかに今の方が「希望は大事」と思える。
月並みだが「愛と希望」とでもいおうか・・・

まあ、6か月間誰とも話せず、「孤独と絶望」の日々を過ごした経験があるため、その対極にある価値、「愛と希望」が生きていくための精神的支柱になることを身に染みてわかっているのだが。

しかし、50代後半の人生に、「愛と希望」はつくづく大事だと思う。
「希望」をもって日々、ちょっとだけ努力してみる。
ちょっとだけ、自分の人生をクリエイティブなものにしていく。
それが少しだけ明日をよくしていく。

たぶん、そういうプラスのスパイラルこそが、大事なんだろうな・・・

だから、苦しい時でも、ちょっとだけ努力してみる。
希望をもつ。
なんとなく、その一歩一歩が楽しく思える。
そんなことの繰り返し。

海のさざ波。
絶えず繰り返される差異と反復。
同じことが繰り返されるようで、
ひとつひとつの波が生み出す差異。
その微妙な差異が
明日の希望につながる差異であるのならば
それこそがクリエイティブな人生につながるように思える。

50代後半になって
「希望」のもつ大切さがわかるようになった。

高齢者の免許証返納について考える

連日のごとく、高齢者の自動車事故の報道が続く。
今日も80代男性が自ら運転する車で妻を轢いてしまったそうだ。
先日、杉良太郎氏が免許証を返納したことが話題になったが、
これはこれで返納の機運を高めることになろう。

しかし、単純にそういえるだろうか?
杉良太郎氏ともなればお抱え運転手もいるだろうし、
また、都市部にすむ人であれば公共交通機関も整備されているので
どこへいくにも不便はない。

上述の妻を轢いてしまった80代高齢者も
返納を考えていたようだが
「通院しなければならないので」という理由で
運転を続けたようだ。

中山間地域に行くと
高齢者が軽トラックで運転している光景をよくみかける。
危なっかしいのだが、
必需品である。
私が知る大山さんという93歳のご老人も
昨年までは軽トラックを運転していた。

あくまで個人的意見だが、
返納したい人は返納してもいいだろうが、
車を生活の足として
まだ必要としている人については
高齢者向けの安全技術の高い車の開発、
というのが現実的ではないかと思う。
自動運転の技術が実用化されれば、
より、安全性は増すだろう。

返納だけではなく、より現実的な解決策を考えた方がいいと思う。