人格攻撃をネット上でする人たちに関する一考察

きれいごとをいうわけではないが、
私自身、言葉はとても大切で
何しろ6か月間の接見禁止を受けた経験があるゆえに
その間、家族とも誰とも会話をすることがなく、
それゆえ、
自分にとっての言葉は
愛に満ちた言葉、
希望に満ちた言葉、
知恵に満ちた言葉、
そしてほんの少しのユーモア、
それだけが大切で
それ以外は不要である。

ネット上で人格攻撃をする人たちがいる。
もちろん、相手側にも非があるだろうが
しかし、こうした人たちの病理性は
相手に非があることを免罪符にして
自身の病んだ部分の不満解消の手段のごとく
延々と相手の人格攻撃を続けることだ。

「自分は正しい。悪いのはあいつだ」
という単純な構図でもって
攻撃対象が悪く、
自分は正しいと主張し、
共感を得ようとする。

しかしながら、こうした人たちの多くは
「自分は正しいのに認められていない」という
ゆがんだ自己承認欲があり、
事実、「自分は正しいことを言っているのに閉職にいる」
といった人物もおり、
つまり、心は病んでいるのである。

こうしたゆがんだ自己承認欲を持つ人たちは
だれか攻撃対象となる人物を攻撃することで
「あいつは悪く、自分は正しい」という図式の中でしか
自身のアイデンティティを持ちえないという
病的な心理状況にあるのだ。

一方、罪を犯して
そこから健全な再起を果たした人の多くは
自分自身のことを深くみつめ
心の奥にある病んだ部分を
修復することで新しく自分を再生していく
という心のプロセスを経ている。

自分の心の奥深くにある病んだ部分を
真摯に見つめ、そこを修復するという
心のプロセスには痛みを伴うこともある。
例えば、幼少期に親からDVを受けていた場合。
思い出したくもない過去を思い出し、
さらにそうしたつらい過去を受け入れるという
心のプロセスも必要になるからだ。

自分の病理性を真摯に見つめ
修復するからこそ
再起ができるのである。
それが起点である。

しかし、
人格攻撃を執拗に続ける人は
「相手が悪く、自分は正しい」という構図の上でしか
自己承認欲を満たせないがため、
自身の心の病んだ部分を真摯に見つめようとしない。

よって、
こうした人たちは
自分の病んだ心を修復する機会を
自ら捨て
あくまでも
「相手が悪く、自分は正しい」という
構図の上で、
相手の人格攻撃をするとことでしか
自己承認欲をみたせないのだ。

つまり
彼らの心はいつでも病んだままだ。

「汝、復讐することなかれ」
聖書の言葉だ。

自身が人格攻撃されたからいうわけではない。
何度も言うが
自分の病んだ心を修復しない限り
罪のスパイラルの中で
延々と罪を犯し続けるだけだ。
それは法的な罪ではなくとも・・・

ただ、それでは本人が救われないだけである。

 

NHK新ドラマ「バカボンのパパよりバカなパパ」が面白い

NHKの新ドラマ「バカボンのパパよりバカなパパ」が面白い。
いうまでもなく赤塚不二夫の人生を娘のりえさんから見た世界が繰り広げられる。
父親を認めることができないりえさん。
娘に対する純粋な愛情とそれを受け入れてくれない娘への葛藤。
結局、家族から離れてしまうのだが・・・

そういえばバカボンのパパの決め台詞「これでいいのだ」
おそらく赤塚不二夫はすべてを受け入れてきたのだ。
支離滅裂のようでいながら、
何もかも受け入れてきたのだろう。
それを笑いにしてきたのだ。
つらいことも
いやなことも
「これでいいのだ」と。

いいドラマだと思う。

受刑者との文通①

刑務所で受刑中の男性と文通始めました。
先月、手紙をおくったところ、
今日、返事がきました。
年齢は32歳、満期出所まであと4年半とのことです。
丁寧な文字で書かれてあり、
私の仕事、WEB解析士の仕事にも興味があるとのことです。

出所時、まだ30代なので、
まだやりなおしは効くでしょう。

私が説教じみたことをいうことはまずない(笑)

自分を見つめ、
自己と対話することをすすめてます。

自分の過去、家族のことなど
眼をそむけたくなるような自分のことから
目を背けず、みつめることが
再スタートのための起点となります。

そこから自分のコアになるものをつかんで
無駄なもの、腐った部分を剪定し、
新しい方向にむけて、再スタートできるかどうか。

なんとかいい相談相手になれて
彼の新しい人生に
いい意味での影響を与えることができれば
幸いです。